August 31, 2014

お食い初め

 5月に長男が生まれ、何ともバタバタした日々を送っている。とりわけ4歳になる長女の赤ちゃん返りには目を見張るものがあり、長男を抱っこするより長女を抱っこするのに骨が折れた。保健師さんから「下の子にネガティブな感情が芽生えないよう、3ヶ月間が勝負どころ」と言われていたが、たしかに今月に入って長女がぐっと落ち着きを見せはじめ、いつの間にか抱っこしなくても済むようになっていた。ただし、長男がスクスクと7,500gまで成長していて慢性的な腰痛に悩まされている。

 今日は長男のお食い初めだった。正直、この「お食い初め」という言葉の響きは、何というか、丁寧なんだか粗略なんだかよくわからない感じである。

 「お食い初め」という呼び名の他に、「真魚始め」、「箸揃え」、「歯がため」といったものもあるらしい。いずれの呼称が最も古いのかは定かでないけれども、そもそも古くは「食う」という言葉にぞんざいな意味はなかったようである。

 今日では「食う」より「食べる」、「食べる」より「いただく」がより丁重な言い回しであるけれども、「食べる」は「たぶ」(お与えになる)の謙譲語が転じて「食う」という意味になった言葉であるし、「いただく」も元々は「頭に載せる」という意味の言葉であったのが、目上の人から物をもらうときに頭上に捧げ待つ動作をしたところから、もらうこと、さらには飲食することを表現するようになった。つまり、食事とは上位者から与えられるものというわけである。

 後続の「食べる」、そして「いただく」という言葉がより丁重な言い回しとして登場してきたために、相対的に「食う」という言葉の地位は下がった。「お食い初め」を今様に言い換えるなら「お食べ初め」くらいだろうか。「いただく」という言葉はまだ下り切れていないから、「いただき初め」だと少しやり過ぎのような気もする。

 こうして生後100日目を「お食い初め」として祝うのと同様に、人が死んで100日目を迎えると百箇日法要を営む慣わしがある。この百箇日のお勤めは「卒哭忌」とも呼ばれ、読んで字のごとく慟哭の悲しみを卒業する節目を意味している。

 一般的には、人が死ぬと四十九日の中陰を経て次の輪廻先が決まると考えられている。以前、「慣用表現」(参照)という拙稿で触れていたように、念仏者は往くが早いか極楽浄土に生まれる。これを「即得往生」と呼ぶが、この中陰をすっ飛ばす往き方だと、「卒哭忌」は極楽浄土に生まれて100日目の「お食い初め」に相当することになる。

 2年前、私は次女を生まれてすぐに亡くした。分娩室の中で、私の腕の中で、私の声にならない念仏の中で息を引き取った。お腹の中にいる段階で先天的な疾患があることが判っていたし、また医師から予後がきわめて厳しいことも告げられていた。だから夫婦で心構えだけは出来ているつもりだったが、現実はそれを軽く飛び越えてきた。

 そんなこんなで次女の百箇日には、「ああ、お食い初めだな」と思った。経典がじゃっかん異なることを説いているのは百も二百も承知しているが、それでも次女は赤子のまま浄土に生まれていても好いと思った。

 極楽の楽しみがこの世の苦しみの反転であるように、「お食い初め」を「卒哭忌」の裏返しと考えるならば、子を授かった喜びから養育の厳しさに向き合う節目が「お食い初め」ということになる。

 率直に言えば、長女の「お食い初め」が華やいだものであったのに比べると、今回は落ち着いたものとなった。それは、子を元気に産み育てることが決して当たり前のことではないという事実を、次女の死が教えてくれたのが大きい。「卒哭忌」を通じて「お食い初め」の本当の意味を思い知った気がする。

 苦楽というのはいつも背中合わせである。何か大事なものを失う悲しみは、そもそもそれを持ち得なければ経験することのない悲しみである。その持ち得ぬ哀しみが、とても深いように思われる。そよ吹く秋風も、うだるような暑さを経てこそ心地よいのである。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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