September 5, 2014

言い残しの伝

 前回あまり調べものもせずに書いたため、後になって分かったことがいくつかあった。というより、まあ出るわ出るわという感じである。「お食い初め」の起源が平安時代にまで遡れるらしいことは知っていたが、『源氏物語』にしっかり綴られていたのであった。

宮の若君の五十日になり給ふ日かぞへ取りて、その餅の急ぎを心に入れて、籠物、桧破籠などまで見入れ給ひつつ、世の常のなべてにはあらずと思し心ざして、沈、紫檀、銀、黄金など、道々の細工どもいと多く召しさぶらはせ給へば、我劣らじと、さまざまのことどもをし出づめり。(宿木)
五月五日にぞ、五十日には当たるらむと、人知れず数へ給ひて、ゆかしうあはれに思しやる。(澪標)

 注目すべきは「五十日(いか)」である。平安時代には「五十日百日之祝(いかももかのいわい)」が宮中や公家の間で行われていた。これは生後50日目、100日目の節目に京都の「市比賣神社」(参照)に詣でて「五十顆之餅」を授かり、それを重湯に浸けて赤子の口につけるというものであったらしい。

 また『吾妻鏡』(参照)においても、建久3年(1192年)11月29日に源実朝の「五十日百日の儀」が北條時政によって取り計られたことが記されている。

廿九日、戊戌。新誕の若君、五十日百日の儀也。北條殿、之を沙汰し給ふ。女房、陪膳に候はず。江間殿、之に從はせしめ給ひ、御贈物を進めらる。御劒、砂金、鷲の羽也と云々。
(『吾妻鏡:吉川本 上卷』国書刊行会、1915年、403頁、原漢文)


 実朝は同年8月9日に生まれているので、ちょうど110日目に祝儀が執り行われた勘定になる。またこれに合わせて、各方面に「十字」(蒸し饅頭)が贈られたことが綴られている。この饅頭については「とらや」の公式サイト(参照)に詳しい。

 さらに『平家物語』(参照)には、治承4年(1180年)1月20日に言仁親王(後の安徳天皇)のいわゆる「袴着」に合わせて「御眞魚始」が行われた様子が描かれている。このとき後白河法皇は鳥羽殿に幽閉されていたわけだが、じつに素っ気ない態度である。

同廿日の日春宮御袴著、竝に御眞魚始とて、目出度事共有しか共、法皇は鳥羽殿にて、御耳の餘所にぞ聞召す。
(永井一孝『平家物語』有朋堂書店、1922年、165頁)


 餅から魚に主役が交代したようである。ちなみに私の2人の子供たちの「お食い初め」では、赤飯や魚などがテーブルに並んで、それを最年長者である祖母が箸を取って子供たちの口につけてくれた。

 それならば皇室ではどうかというと、誕生から120日を過ぎた頃に、一般の「お食い初め」に当たる「お箸初」が行われている。平成14年(2002年)3月30日付の「朝日新聞」の「敬宮さま『お箸初』 体重6735グラムに」(参照)という記事によると、「小豆粥」や「金頭(かながしら)」と呼ばれるホウボウ科の赤い魚、それから青黒い色をした「青石」が三方に並ぶようである。また、愛子内親王のときには東宮女官長が、そして悠仁親王のときには秋篠宮付侍女長が、それぞれ箸を握っている。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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