January 7, 2016

丙午

 昨年末、市制10周年を記念して作成した「10年ダイアリー」に六曜を記載していたとして佐伯市がその配布を見送ったことが報じられていたが、1月6日の定例記者発表(参照)において西嶋泰義市長は当初の予定通り六曜記載のものを配布すると述べた。発表内容は以下の通りで、これと同内容の文章がダイアリーにも添えられるという。

 この度、市制施行10周年記念ダイアリーをこの文書と一緒にお届けします。
 年末の配布予定を急きょ見送ったことにより、市民の皆様、自治委員及び関係者の方々に多大な御迷惑をお掛けいたしました。配布を見送った理由は、ダイアリーに「六曜」(先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口)が記載されていたためです。ひとえに私の人権問題に対する認識不足によるものです。内外に混乱を招いたことと併せ、深くお詫びを申し上げます。
 「六曜」は、暦に記載される日時、方位等の吉凶やその日の運勢を書き記す歴注のうちの一つで、我が国では広く社会生活に溶け込んでいる迷信の一つです。
 人々がこのような科学的に根拠のない迷信によって考え方や行動を左右されることは、人権問題における差別そのものが人々の日常の非科学的で不合理な生活意識に根を下ろしているという点では同様であり、人権問題の解決を阻む要因の一つでもあります。市は、人権啓発を推進する立場にあり、市の出版物に「六曜」を記載することは、適切ではありません。
 しかし、このダイアリーは、内容的に是非市民の皆様にも活用していただきたい記念品であり、その作成には多くの労力と経費をかけています。そのため、「六曜」については、人権の問題を含んでいることを改めて明言することをもって、あえて、私の政治的判断としてこのダイアリーを配布させていただくことといたしました。市制10周年の記念に佐伯市を振り返っていただくとともに、これからの未来に向かって活用していただきますようお願い申し上げます。
 今後、佐伯市はこのダイアリーの作成を教訓とするとともに、「佐伯市人権尊重のまちづくり条例」に立ち返り、あらゆる差別の撤廃及び人権の擁護を図り、もって平和な明るい地域社会の実現に向け、より一層取組を進めてまいります。市民の皆様の御理解と御協力をお願い申し上げます。
(平成28年1月6日・佐伯市役所庁議室「1月市長定例記者発表要旨」より)


 年の瀬に沸き起こった騒動は杵築市や臼杵市にも飛び火し、一体どこまで広がっていくのだろうかと眺めていた。ネット上に流れる意見の多くは「別に問題ないのでは」といった調子のものだった気がするし、実際に市に寄せられた意見の大半は配布を求めるものであったとNHK大分放送局が報じた。1月6日付のNHK「六曜記載の記念誌 一転配布へ」(参照)より以下に引用する。(原文ママ)

佐伯市によりますと、この記念誌をめぐっては、これまでに67件の意見や要望などが市に寄せられ、▼配布の中止を求めるものが3件▼そのままの状態で配布することを求めるものが60件あったということです。

 六曜が絡んだ行政機関の騒動としては、平成17年に大津市の職員手帳が解放同盟の抗議を受けて廃棄処分された事例が夙に有名で、各公共機関のガイドラインはこのケースに準拠しているものと思われるが、今回は市長個人の「政治的判断」として配布に踏み切るというものである。一方で、杵築市や臼杵市では六曜を記載したカレンダーの回収や廃棄を進めていくとしており対応が割れている。

 そんなこんなで、あらためて六曜について考えを巡らせる年の暮れであったが、じつは干支について調べ物(参照)をする中でいつしか関心が「丙午」に移行していた。

出生数及び合計特殊出生率の年次推移(厚生労働省)

 上のグラフは厚生労働省が発表した「平成23年人口動態統計月報年計(概数)の概況:結果の概要」(参照)によるもので、丙午である昭和41年(1966年)に極端な出生数の落ち込みがあったことが判る。

 丙午は「丙」も「午」も五行の「火」に属する「比和」であるが、中国では北宋時代の末期には凶歳と考えられるようになっていた。これが日本に入ると江戸初期には「火災に見舞われやすい」といった迷信に転じており、井原西鶴の『好色五人女』で知られる「八百屋お七」が丙午生まれであるという風説が立つところとなって、ついには丙午生まれの女性は縁起が悪いという迷信が決定的なものとなった。また丙午生まれの女性は、男を惑わせて身を滅ぼさせる「飛縁魔」という妖怪に例えられてもいたようで、じつに苦労が絶えない。

 昭和41年の異変はどういうものであったのか。詳細を見るため、厚労省の統計表「出生数・出生率(人口千対)・出生性比・合計特殊出生率・平均発生間隔,年次別 -明治32~平成21年-」(参照)から、昭和41年の前後5年間(昭和39年〜昭和43年)の各データを年次別に以下に並べてみた。尚、この5年間に沖縄県は含まれない。


  • 昭和39年…①1716761(男882924・女833837)②17.7 ③105.9 ④2.05
  • 昭和40年…①1823687(男935366・女888331)②18.6 ③105.3 ④2.14
  • 昭和41年…①1360974(男705463・女655511)②13.7 ③107.6 ④1.58
  • 昭和42年…①1935647(男992778・女942869)②19.4 ③105.3 ④2.23
  • 昭和43年…①1871839(男967996・女903843)②18.6 ③107.1 ④2.13

注:①出生数、②出生率(人口千対)、③出生性比、④合計特殊出生率
(厚生労働省「出生数・出生率(人口千対)・出生性比・合計特殊出生率・平均発生間隔,年次別 -明治32~平成21年-」より)


 昭和41年の出生率は前年に比べて約26%の減少、その翌年は約42%の増加であることが判る。そして出生性比に注目すると、男に比べて女が激減したということもないのが判る。これはどう考えればよいのだろうか。慶応義塾大学の赤林英夫氏は「丙午世代のその後-統計から分かること」(参照)において次のように述べる。

当時のマスコミでは、60年前の悲劇の記憶が戦後よみがえったか、と言われたが、その後の研究(後述)によれば、最大の理由は、簡便な避妊方法が普及して、出生をコントロールしやすくなったためである。
(中略)
まず、1966年の丙午の直後の『昭和41年人口動態統計』(厚生省大臣官房統計調査部1967)は、出生数が大きく減少したことを報告し、その減少に対して、出生日の操作がおよそ2%程度寄与し、人工妊娠中絶はほとんど寄与せず、主に、受胎調節(避妊)が行われた可能性が高いことを示唆した。その根拠として、優生保護法に基づく年間人工中絶報告件数では、顕著な増加は見られないからだ、とした。ちなみに、同報告書では、40歳未満の有配偶女性のうち、98%が丙午のことを知っており、30%が、その年に子どもを生みたくない、と答えているとしている。
(赤林英夫「丙午世代のその後-統計から分かること」日本労働研究雑誌2007年12月号、18-19頁)


 つまり昭和41年の出生数の激減とは、因習にとらわれた地方や農村部を中心に中絶が激増したといった事由からではなく、むしろ情報感度の高い都市部の若年夫婦が受胎調節を行ったからなのであった。じつはこれを裏づける厚生省(現厚生労働省)の地域別統計もあったりする。丙午生まれの女児の誕生を避けるべく受胎調整が広がり、結果として男児の出生率も女児と同等に引き下げられたのである。

 つい半世紀前にこのような迷信に基づく受胎調整が広まった事実に驚きを禁じ得ないのであるが、生まれてくる子に理不尽な苦労を背負わせまいとする親心がそこにはあったはずである。自身においては何とか人生をやりくりしながらも、他者の生き方に対しては可能なかぎり寛容でいられたらいいと思う。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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