December 29, 2015

丙申

 いよいよ暮れも押し詰まってきた。私個人については昨年の大厄と同様、挑厄も大過なく終わろうとしている。有難いことだとしみじみ思う。

 明年は丙申であるが、一体どういう年であるのか調べていたら『漢書』の「律暦志」(参照)というものにたどり着いた。『漢書』とは前漢代の歴史について後漢代に班固らによって編纂された100巻からなる書物であり、「律暦志」では楽律と暦法について言及がなされる。

 ついでながら、干支について調べ物をすればいずれ漏れなく「律暦志」につれて行かれる。また逆に、ネット上で「律暦志」について言及されるときは干支、とりわけ十二支に関する記述部分であると考えてほぼ間違いない。これは拙稿『隠没の相』(参照)で論じた阿弥陀仏の入滅と『授記経』の関係によく似ている。阿弥陀仏の入滅について論じでもしない限り『授記経』が顧みられることもまずないのである。

 「楽律」とは音律にまつわる細かな規定をいう。律管(調律のための12本1組の管で竹製のものが多かった)のそれぞれの長さや太さがここで重要となってくるのであるけれども、じつは王朝の交代とともに改定される度量衡(さまざまな単位)の規準でもあったためその影響力は計り知れなかった。また『論語』に「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯第八)とあるように、社会秩序を定める「礼」は折々の儀式において厳格に奏でられる「楽」を通して顕現された。

 そして律管のそれぞれの長さによって1オクターブの中に12音を配した。長さ9寸の律管の音を基準音としてこれを「黄鐘」と呼び、管長が短くなるにしたがって音が高くなる塩梅であるが、こうして配置された12の音律を「十二律」という。

  1. 黄鐘(こうしょう)…… 9寸〈子・11月〉
  2. 大呂(たいりょ)……… 8寸4分2厘7毛余〈丑・12月〉
  3. 太簇(たいそう)……… 8寸〈寅・1月〉
  4. 夾鐘(きょうしょう)… 7寸4分9厘1毛余〈卯・2月〉
  5. 姑洗(こせん)………… 7寸1分1厘1毛余〈辰・3月〉
  6. 仲呂(ちゅうりょ)…… 6寸6分5厘9毛余〈巳・4月〉
  7. 蕤賓(すいひん)……… 6寸3分2厘0毛余〈午・5月〉
  8. 林鐘(りんしょう)…… 6寸〈未・6月〉
  9. 夷則(いそく)………… 5寸6分1厘8毛余〈申・7月〉
  10. 南呂(なんりょ)……… 5寸3分3厘3毛余〈酉・8月〉
  11. 無射(ぶえき)………… 4寸9分9厘4毛余〈戌・9月〉
  12. 応鐘(おうしょう)…… 4寸7分4厘0毛余〈亥・10月〉

 上記の「十二律」は陰陽二元論に則って二分される。奇数のものを陽律として「律」と呼び、偶数のものを陰律として「呂」と呼んだ。念のため断っておくと、雅楽の十二律は中国のものとは異なる。また「律暦志」の記述に基づいて十二支と月(旧暦)との対応についても付記した。

 ところで「陰」と「陽」の二つの気は万物の根源たる「大極」から生まれ、この二つの気によって森羅万象は起こるというのが「陰陽思想」である。「律暦志」では、これら二つの気が十二律を変動させながら十二支を駆け巡って「子」に集まり、万物を化生させているとした上で次のように述べる。

故孳萌於子。紐牙於丑。引達於寅。冒茆於卯(師古曰、茆謂叢生也、音莫保反)振美於辰。已盛於巳。咢布於午(蘇林曰、咢音愕)昧薆於未(師古曰、薆蔽也、音愛)申堅於申。留孰於酉。畢入於戌。該閡於亥。
(凌稚隆『漢書評林 巻之21』鈴木義宗、1882年、5-6頁)


 十二支をそれぞれ漢字2文字で説明していくという体裁である。以下に並べてみると分かりやすいが、植物の発生から消滅までが説かれている。また「午」において陽気と陰気の形勢が逆転するのが分かるが、これは正午が1日を等分するのに等しい。

  1. 「子」…(陽気によって地下で)滋り萌える。
  2. 「丑」…(地下で)屈み結ばれつつも芽生える。
  3. 「寅」…(地下から)上に出ようとする。
  4. 「卯」…(地面を)冒し出て群生する。
  5. 「辰」… 振るい立って伸びる。
  6. 「巳」…(陽気が)すでに盛んとなる。
  7. 「午」…(上昇する陰気が下降する陽気に)逆らい地を冒し出てくる。
  8. 「未」…(木の枝葉が重なって)暗く蔽う。
  9. 「申」… 伸びきって実が堅くなる。
  10. 「酉」…(新酒を作れるほどに)熟し尽くす。
  11. 「戌」…(地下に)滅び入る。
  12. 「亥」…(地下で)種によって包み隠される。

 十二支の説明が終わるとすぐさま十干の説明が始まる。

出甲於甲。奮軋於乙。明炳於丙。大盛於丁。豐楙於戊。理紀於己。斂更於庚。悉新於辛。懷任於壬。陳揆於癸。
(凌稚隆『漢書評林 巻之21』鈴木義宗、1882年、6頁)


 十干についても十二支と同様、それぞれ漢字2文字で説明していくのであるが、やはりこれも植物の生滅がストーリーとなっている。

  1. 「甲」… 種を破って出る。
  2. 「乙」… 草木がひしめき合いながら生じる。
  3. 「丙」… 葉を広げて明らかとなる。
  4. 「丁」… 草木が大いに繁茂する。
  5. 「戊」… 豊かに茂る。
  6. 「己」… 形が整って記すことができる。
  7. 「庚」… 結実して改まる。
  8. 「辛」… 悉く摘み取る。
  9. 「壬」… 懐妊する。
  10. 「癸」… 一斉に生まれ出ようとする。

 そして「律暦志」は、陰陽がその律呂を行き渡らせながら万物を再生し続け、また日月星辰を経巡りながら変化してゆく情景を見ることができると続く。ところで、この『漢書』を編述した班固は『白虎通徳論』(参照)という4巻からなる儒学書も撰している。その第3巻の第17章「姓名」には、歴代の殷王の名前(諡)に十二支ではなく十干が付される理由が問答形式で述べられる。

甲乙者榦也。子丑者枝也。榦爲本、本質。故以甲乙爲名也。
(清王謨輯『増訂漢魏叢書 經翼第13册』出版者不明、1792年、37頁)


 「甲乙(十干)は幹で、子丑(十二支)は枝なのである。幹のほうが本質なのだから甲乙なのである」といった趣である。つまり、明らかに「干支」は「幹枝」と解釈されていた。植物の生滅のイメージともぴったり一致するのである。

 こうして干支は十干と十二支それぞれの周期がもたらす揺らぎを持ちながら、十干の10と十二支の12の最小公倍数である60を周期とする。干支が一巡すれば「還暦」である。

 すると明年はどんな年であるのか。上述の「丙」と「申」の字義の組み合わせだけ見れば目出度そうな気がするのであるが、「五行」(木火土金水)の組み合わせとしては、火(丙)が金(申)を溶かすのであまり宜しくないという。じつに難儀である。

 万物は「五行」によって成り立つとする「五行思想」に先に述べた「陰陽思想」が結びつき、戦国時代に「陰陽五行思想」が生まれるのであるが、これにさらに古い干支が組み込まれていった。干支は殷代においては日付を表すのみであったが、「陰陽五行思想」と結びつきを深めてゆく中で月や年も表すようになり、さらには時刻や方位をも表すようになる。

 秦代に焚書の憂き目に遭った儒教が陰陽五行思想を取り入れて国教化を果たすのが漢代であり、陰陽五行思想もまた大きな展開を見せた。ちなみに仏教の中国への伝来もこの時代である。

 じつを言うと、今日においては、干支を植物の一生に見立てるような解釈は後付けに過ぎないというのが定説となっている。実際に「律暦志」や『白虎通徳論』に目を通していると、とにかくあらゆる領域を陰陽五行思想や儒教で記述し尽くそうという信念のようなものを感じる。そして、それは信仰の表出として真摯なものであるとも思う。

 およそ宗教というのは一元的にモノを見る。だから、中国における儒・仏・道の「三教合一」や日本における神仏習合など、シンクレティズムには一定の緊張状態が維持される。現代においては「多様性」ということが言われ、幸いなことに多くの宗教や教団が共生の道を歩んでいるかのように見える。けれども、それは衝突する局面を迎えていないからであって、歴史を学べば「共生」という名の下に同化を強いたりすることもあるのが解る。

 もし「本当の干支」というものがあるとして、それは一体どういうものになるのだろうか。干支の歴史については殷代まで遡ることができるが、殷代とは「甲骨占卜」(亀甲や牛骨を用いた占い)によっておびただしい人身御供が神に捧げられた時代であり、また歴代の王はシャーマンの頂点に君臨していた。つまり、呪術的な文明社会だったのである。

 すべてのものは煎じ詰めると消えてなくなる。たとえば金平糖は熱い釜の中を蜜にまみれながら転がってあのデコボコした形になるが、最初にまず小さな核がある。普通その核はグラニュー糖で、その存在を知られることなく口の中で消えてしまうが、ちょっといいものだと餅米を細かく砕いた「イラ粉」が使われてて、舌先にヌメッとした感触を束の間残して消えてゆく。

 あのイラ粉に目がないんだという人もいるかもしれないが、ゴロゴロした食感を楽しみながら滋味を求める人のほうが多いようである。それから子供には色とりどりのものを選んであげるといい。きっといい笑顔を見せてくれる。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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