December 30, 2017

右遶三匝

 先月、生まれて初めて子供神輿を舁いた。神輿を舁く子供が私の娘を含めて3人しかおらず、さらに揃って小学1年生だったことから大人の男3人が舁夫として加わり集落を練り歩いたのである。「あら、和尚さん」と行く先々で驚かれたが、それはともかく私は子供時代を思い出してほろ苦い気持ちになった。

 私は現在住んでいる延命寺から車で30分ほど離れた寺に生まれたが、神事からは距離を置いて育った。子供神輿を舁くこともなかった。神輿が練り出す前に記念写真を撮ってもらったりはしていたが、練り出すころには手を引かれて寺に帰っていた。もっとも、8歳離れた双子の弟たちのころになると子供が足りなくて神輿を舁くようになっていたが。

 大人になってからも神事からはどこか距離を置いていた。延命寺のすぐ近くには天神社があり、毎年秋祭りの朝には宮出しのお囃子が聞こえてくるのだが、ただ寺の庫裡から華やいだ空気を感じるだけだった。

 それが今年は押しも押されもせぬ舁夫である。あれよあれよという間に宮出しの神事から拝することとなり、朝から家族4人で天神社に詣でた。すると本殿から出て来た子供神輿がそのまま時計回りに本殿を回り始めた。1周、2周、3周…3周ちょうど回り終えたところで止まった。「あ、右遶三匝だ」、そう思った。

うにょう【右遶】右旋ともいう。右回り。常に中央に右肩を向けるように、時計の針の回り方と同じ回り方をする。インドの礼法。①古代インドでは貴人に尊敬の意を表すとき、右脇を貴人に向けてその周囲を三度回った。また軍隊が凱旋して帰って来たときには、城壁のまわりを三度右回りして城の中に入っていった。ヴェーダ学生は聖火を右回りする。ジャイナ教でも行った。(中略)②このような習俗が仏教にとり入れられたのである。インドでは仏に対して修行僧は右遶三匝(うにょうさんぞう)するのが礼法である。シナでは戒壇をめぐるのに左遶の法をとることがあり、日本でも禅宗の巡香のときは左遶するが、その他の行道は全て右遶する。(後略)
(中村元『広説佛教語大辞典』縮刷版、東京書籍、2010年、109-110頁)


 古代インドの礼法が仏教を介して神事に取り入れられたと考えられなくもないわけであるが、果たしてどうなのだろうか。聞けば当地では宮出しで右遶三匝を行うところが多いらしい。けれどもいろいろ調べてゆくと、全国的にも宮出しで右遶三匝が行われている事例が散見される一方、左遶の事例も負けず劣らず多いことが分かる。それに回数も1周だったり2周だったりもする。そんな訳で「いろいろな要因があるのだろうな」と、凡庸ではあるけれどそう思うにとどめることにした。

 そういえば、かつてよく目にした野辺送りでも右遶だったり左遶だったりしたものだった。当地では10年以上前に火葬場が移転リニューアルを機に斎場を兼ねるようになったが、これによって急激に寺院での葬儀が減少し、野辺送りも姿を消していった。リニューアルして間もないころは火葬場の正面玄関前で葬列が3周していたが、ほどなくしてこれも姿を消した。

 延命寺では平成19年を境にして本堂での葬儀がほぼ姿を消したが、それ以前は野辺送りが欠かせなかった。拙寺に奉職した当時といえば、葬儀当日の朝に自宅で出棺式を勤めてから火葬場で荼毘に付し、再び自宅でお勤めして後に寺まで葬列を組んで本堂で葬儀を営むという流れが一般的であった。そしてこれと並行して「念仏講」と呼ばれる男衆が朝から境内墓地で納骨の準備を進めており、葬儀終了後に滞りなく納骨するというものだった。

 当時、自宅からの葬列より一足先に私は寺へ帰って葬儀の準備を整えていた。そして葬列が本堂正面に到着する頃合いを見計らって半鐘を打ち鳴らすのであるが、このとき葬列は右遶することもあれば左遶することもあったのである。はてさて、どういった理由で左右どちらに回るかが決められていたのかということになるのであるが、どうも喪家の長老の鶴の一声によるところが大きかったようである。

 ところで『「お墓」の誕生 : 死者祭祀の民俗誌』(参照)でも、やはり葬列が右遶三匝する理由について民俗学的な観点からアプローチしている。

 次は、山梨県南巨摩郡南部町成島の葬列の様子である。
 成島では、葬儀はたいてい 午後一時からと決められているので、その日の午前中、葬儀の前に火葬を行ない、いったんは遺骨が自宅に戻ってくる。午後一時から自宅で僧侶の読経が行なわれ、妙法講と呼ばれる老人の講による題目が詠まれる。(中略)自宅での読経が終わると、葬列を組み寺院まで歩いていく。(中略)先頭の花籠・龍の口を中心として寺院境内に入っていくが、ここでは、写真2-3のように、この花籠・龍の口を中心にして時計まわりに三周まわっている(実際は二周半だった)。そして、それが終わると、寺院本堂へあがり葬儀がはじまる。
(岩田重則『「お墓」の誕生 : 死者祭祀の民俗誌』岩波書店、2006年、54-57頁)


 数年前に本書を読んだとき、本堂での葬儀はすでに途絶え、本堂での遺骨葬から斎場での遺骸葬にすっかり様変わりしていたため懐かしさを覚えた。よく似た葬送の風景だなとも思ったが、いくつかの相違点もあった。本書では花籠と龍の口(龍頭)を中心にして右遶三匝が行われているが、拙寺の場合は位牌や遺骨を抱えた者が中心に立って、残りの遺族が3周するというものであり、そこに故人と仏との同格化を見ていた。つまり故人の極楽往生および成仏が疑いないという敬慕の念がそこに見出せるわけで、右遶三匝の本義に通じるものを感じ取っていたのである。 

 ところが本書はこう続く。

 出棺のあと、遺体(遺骨)を墓まで移動させる葬列、それは単に物理的に遺体を移動させるだけなのであろうか。たとえば、葬列がわざわざ三周まわるのはどうしてであろう。いまここで紹介したのは一例にすぎないが、葬列において花籠・龍の口などを立てその周囲をまわる民俗事象は各地に多い。単なる遺体の物理的移動であるならば、このような行為は必要ないわけであり、そこにはなんらかの儀礼的意味が込められていると考える必要がありそうである。 
(中略)
 時計まわりに三周回転する民俗事象が、葬列のような霊魂だけではなく、祭・民俗芸能のような神をめぐる場合においても行なわれていることは、この行為に共通するなんらかの儀礼的意味が存在するものと仮定できる。その上で、仮説を述べてみると、花祭の市の舞や「かごめかごめ」をめぐる憑依現象のような、その場にいる人間に霊魂あるいは神を依り憑かせていることが重要であろう。霊魂あるいは神をそこから遊離させるのではなく附着させている。葬列における回転とは、遺体が墓へと移行する境界的空間・時間において、遺体にともなうべき死霊を遊離させず、遺体へと附着させていることを再確認する儀礼であると考えたいのである。
岩田重則『「お墓」の誕生 : 死者祭祀の民俗誌』岩波書店、2006年、57-61頁)


 ああそっちか、と思った。じつは自宅での出棺時に棺をグルグル回す地域も少なくないらしいのだが、この儀礼は故人の方向感覚を失わせて家に帰ってこないようにとの意味づけが大抵なされる。言葉は悪いが、そういったいわゆる「幽霊封じ」の側面があることは否定できないのである。

 それから、遺体(遺骨)が右遶三匝する側なのか、それとも右遶三匝される側なのかによって意味が違ってくるというのはあるが、じつはバリエーションに過ぎない。それを言うなら、遺体を中心とする右遶三匝のほうが崇敬の念を表す本義に合致するけれど、同時に「遺体にともなうべき死霊を遊離させず、遺体へと附着させていることを再確認する儀礼」としてもより強固なものとなるはずだからである。

 こうした民俗学的なアプローチにおいて、寺院側の規範が葬送儀礼にどう関わってきたのかという論考には寡聞にして出会ったことがない。実際のところ、それぞれの宗派の教義や儀礼は二義的なものでしかなく、およそ葬送儀礼はさまざまな民俗的慣習を取り込んでそれぞれの地域で展開してきたことが指摘されている。

 ただ、列島各地で見られる右遶三匝という民俗事象が大陸由来の礼法と無関係に伝播した、あるいはシンクロして発生したと考えるのはナンセンスであり、やはり仏教の一儀礼としての右遶三匝に触れたほうがより手応えのある考察になるのかなとは思う。


釈尊の荼毘塚ラマバール・ストゥーパ(Feb 28, 2009)

 ここで話はインドに移る。釈尊の荼毘についてであるが、なかなか燃えなかった薪が釈尊の臨終に立ち会えなかった摩訶迦葉(大カッサパ)が到着すると自然と燃えたと伝えられている。

 次いで尊者大カッサパは、クシナーラーの天冠寺であるマッラ族の祠堂、尊師の火葬の薪のあるところにおもむいた。そこにおもむいて、(右肩をぬいで)衣を一方の(左の)肩にかけて、合掌して、火葬の薪の堆積に三たび右肩をむけて廻って、足から覆いを取り去って、尊師のみ足に頭をつけて礼拝した。
 かの五百人の修行僧も、衣を一方の肩にかけ、合掌して、火葬の薪の堆積に三たび右肩をむけて廻って、尊師のみ足に頭をつけて礼拝した。
 そうして尊者大カッサパと五百人の修行僧とが礼拝しおわったときに、尊師の火葬の薪の堆積はおのずから燃えた。
(中村元訳『ブッダ最後の旅 : 大パリニッバーナ経』 岩波書店、1980年、172頁)


 まさに偏袒右肩の右遶三匝である。それではなぜ「右遶」であるのか、なぜ「三匝」であるのか。前者に関してはよく知られているように「右」を清浄、「左」を不浄とする観念が古代インドでは徹底していたからである。摩耶夫人は六牙の白象が右脇から胎内に入る夢を見た後に釈尊を出産している。一説によると白象は摩耶夫人を右遶三匝したという。

 そして釈尊はまた同じように摩耶夫人の右脇から生まれるのであるが、これは釈尊がクシャトリヤ(ラージャニヤ)の階級であることを意味する。『リグ・ヴェーダ』所収の『プルシャ・スークタ』という創造讃歌に、神々が祭祀を行うにあたって万物創造の原人プルシャを切り分けたとき、その口はバラモン(司祭階級)に、その両腕はラージャニヤ(王族・武人階級)に、その両腿はヴァイシャ(庶民階級)に、その両足はシュードラ(隷属民)になったと説示されるからである。


釈尊降誕の標石を覆うマヤデビ寺院(Mar 1, 2009)

 その一方で、なぜ「三匝」であるのかについては明確な理由が見出せないのであるが、とにかく右遶三匝の礼法は中国にすんなりと受け容れられたようである。というのも、中国には仏教が伝来するよりもずっと昔から「以右為尊(右を以って尊しとなす)」という考え方があったのと、すでに「三拝」という礼法が存在していたため溶け込みやすかったのであろう。

 中国宋代の道誠によって撰述された『釈氏要覧』の巻中(参照)には次のようにある。

 『遶佛』又旋遶と云ふ、此の方には行道と稱す。 
 西域記〔卷二〕に云ふ 、西天には宗事する所に隨ひ、禮したる後、皆須らく旋遶すべしとす。蓋し歸敬の至なり。唯だ佛法にては右に遶る。法苑〔珠林、卷三十七〕に云ふ、天行に順ず。匝る數のごときは、則ち定まらず。三匝するごときは、三業を表し、七匝は七支を表す。經に百千匝、多數匝と云ふ如きは、但だ多きを以て數と爲す。敬を表するの極なり。
 賢者五戒經に云ふ 、塔を遶ること三匝するは、三尊を敬するを表す。三毒を滅せん爲の故なり。 
 提謂經に問ふ、散華と燃香と燃燈と禮拜、是を供養と爲す。旋遶せば何等の福をか得ると。佛の言はく、五の福有り、一には後世に端正なる好色を得、二には好聲、三には天上に生るるを得、四には王侯家に生るるを得、五には泥洹道を得と。 
 三千威儀經〔卷上〕に云ふ、旋遶に五事有り、一には頭を低くして地を視、二には蟲を蹈むを得ず、三には左右を視るを得ず、四に地に唾するを得ず、五には人と語話するを得ずと。
(T2127_.54.0288a04-16、原漢文)


 ここでは三匝に意味づけがなされ、仏像を三匝するのは三業(身・口・意)を尽くして敬意を表するためであるという。また仏塔を三匝するのは三尊を敬い、三毒(貪・瞋・癡)を滅するためであるとするが、この場合の「三尊」とは「三宝」(仏・法・僧)であることが『法苑珠林』巻三十七の末尾に説示されている。というより『釈氏要覧』のこの項目は『法苑珠林』巻三十七の末尾を多少組み替えただけのものなのだが。

 ちなみに『法苑珠林』巻三十七の末尾には「若左繞行爲神所呵(もし左遶を行ずれば神の呵るところとなる)」云々とあり、左遶について調べてみたところ『薩婆多毘尼毘婆沙』(参照)にこのようにあった。

頭面禮佛右遶して去るとは、若し外道異見は、但遶りて去る、若し信ずる者あれば、足を禮し遶り已りて去る。佛身は清淨なること、喩へば明鏡の如し、天神龍宮山林河海一切の器像、身中に於て現ず。見る者信敬の心生ず、是の故に頭面禮足す。右遶とは、佛法に順ずるが故に、所以に右遶す。又密迹力士、若し左遶するものあれば、卽ち金剛杵を以て之を碎く。又佛世々已來、常に三寶父母師長に順ひ、一切の教誡違ふなく逆ふなし、今果報を得て、逆ふものあることなし。又佛身は淨なり、衆生中に於て、各事ふ所を見る、或は天、或は神、見ざるものなし、是れを以て畏敬右遶して去る。問うて曰く、外道邪見、何を以て佛足を禮せざる。答へて曰く、世々憍慢を習ふが故に。又常に惡邪を懷いて善心なきが故に。又云く、各事ふる所あるが故に。何を以て正しく遶ること三匝なる。一には佛を惱亂せず、自ら亂れざるが故に、二には將來解脱の因緣を生ずるを以ての故に。
(T1440_.23.0534a06-19、原漢文)


 もし左遶でもしようものなら仏の守護神である密迹力士に金剛杵で粉砕されるというものでる。じつに恐ろしい。

 それから『無量寿経』にも右遶三匝が描かれている。法蔵菩薩は世自在王如来のおみ足に額づいて「右繞三帀」した後、長跪合掌して『歎仏頌』を詠じているし、また同じように世自在王如来を「繞佛三帀」してから四十八願を申し上げている。さらに『讃重偈』には菩薩たちが阿弥陀仏を「繞三帀」して額づくと、阿弥陀仏は顔をほころばせて口から計り知れぬ光を放ち、その光はあらゆる世界を照らした後に阿弥陀仏を「圍繞身三帀」して頭頂部から入り込むと説かれるのである。

 江戸後期の東日本に右遶三匝は「栄螺堂」として花開く。「栄螺堂」は正式には「三匝堂」といい、らせん構造の回廊を進んで行くと気づけば右遶三匝しているというユニークな寺院建築である。とりわけ福島県会津若松市にある「会津さざえ堂」(正式には「円通三匝堂」)は、二重らせん構造のスロープが続くことで有名であるが、厳密に言えば上りは右遶で下りは左遶となっている。




 会津さざえ堂は寛政8(1796)年、神仏習合していた正宗寺の郁堂禅師によって境内に建立された。当時は阿弥陀如来を本尊とし、スロープには西国三十三観音像を安置していたが、廃仏毀釈で正宗寺は廃寺となり栄螺堂の仏像もすべて撤去。当時の住職・宗潤は還俗し、現在は宗潤の末裔が個人で所有しているという。

 ところで冒頭の神輿の話題に戻ると、聖武天皇が建立した大仏を参拝するため、天平勝宝元(749)年12月に宇佐神宮から八幡大神とお供の女禰宜、大神杜女が紫の鳳輦に乗って東大寺の転害門をくぐっているのだが、この鳳輦が今日に伝わる神輿の始まりとされる。神輿は仏を恭敬するためにスタートしたということになる。

 こうして長きに亘る神仏習合の時代が続くのであるが、江戸末期から廃仏毀釈の嵐が吹き始め、維新政府によって発せられた神仏分離令が引き金となって寺院や仏像の破却が激化する。明けて平成30年は明治維新から150年を数えるが、廃仏以前の伽藍が残っていたらどんな風景が広がっていたのだろうと想像せぬでもない。

 けれども、過疎化によって祭礼も存続できないような地方の衰退を日々肌で感じていると、何とも言えない気持ちになる。右遶とか左遶とか、そんな話もできるうちが花なのではないか、そう思うのである。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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