April 29, 2020

融通念仏縁起

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため諸行事の中止・縮小で対処してきた総本山知恩院であったが、やむなく4月26日から境内の閉門に踏み切った。




 知恩院に先立ち四天王寺は4月10日から、比叡山延暦寺は4月20日から、いずれも当面の閉鎖に入っている。とりわけ四天王寺は推古天皇元年(593年)に聖徳太子によって創建されて以来の閉鎖ということが話題となった。四天王寺は開闢以来、これまで石山合戦、大坂冬の陣、大阪大空襲といった戦火、あるいは落雷や火災によって幾度となく焼失し、また室戸台風やジェーン台風によって崩壊の憂き目にも見舞われてきたが、寺側から参拝を断ることはなかったのだそうである。

 ちょっと四天王寺には思い出がある。サラリーマン時代、すぐ近所に住んでいたのだ。懐かしい風景や人の顔が次から次へと思い出されてくるのであるが、それはともかく新型コロナウイルスの蔓延ですっかり世の中ひっくり返ってしまった感がある。

 八坂神社も例年なら6月30日の「夏越の大祓式」と7月31日の「疫神社夏越祭」のときにだけ設けられる茅の輪を、疫病退散を祈願して3月8日から境内の2カ所に設置している。コレラが流行した明治10年以来、143年ぶりの夏以外の設置であったが、ついに山鉾巡行が中止される事態に至った。




 森壽雄宮司が山鉾巡行の中止を「断腸の思い」と話すように、祇園祭は貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に行われた「御霊会」を起源とする。かつて八坂神社は「祇園社」と呼ばれる興福寺の末寺であったが、10世紀末の戦乱により延暦寺の末寺となった。釈尊が説法をした祇園精舎の守護神とされる牛頭天王(素戔嗚尊の本地)を祭神と仰ぎ、祇園社の御霊会は「祇園御霊会」と呼ばれたが、明治期の神仏分離令により「八坂神社」という社名に改められ、祭神は素戔嗚尊に、そして祭礼名は「祇園祭」に変更された。

 このように、祟りをなす疫神や死者の怨霊を鎮め慰める「御霊会」をルーツとする祇園祭のハイライト「山鉾巡行」が、疫病の蔓延によって中止されるというのは何とも皮肉である。じつは4月8日に八坂神社は境外末社の又旅社(中京区)において、新型コロナウイルスの早期終息を祈願した特別神事「祇園御霊会」を営んでいる。5月20日にも今度は境内で「祇園御霊会」を予定しているそうだが、やはり感染防止のため一般の参列は認められていない。

 また京都四箇本山(総本山知恩院、大本山金戒光明寺、大本山百萬遍知恩寺、大本山清浄華院)の三箇寺の大本山でも、やはり4月26日から閉門には至らなかったものの、いずれも諸堂を閉堂している。百萬遍知恩寺の「百萬遍大念珠繰り」(僧俗が輪になって念仏を称えながら大念珠を繰る)は疫病退散に端を発する。元弘元年(1331年)、震災によってもたらされた天然痘の蔓延に心を痛めた後醍醐天皇の勅命により、七日七夜にわたって百万遍の念仏を修したところ天然痘が終息して「百萬遍」の勅号を下賜された。

 個人が7日間または10日間と期日を定めて100万遍の念仏を称えるのが本儀ではあるが、複数人が同時同行で称える念仏の総計をもって100万遍とする場合もある。ただし実際には念仏の総計が100万遍に達さずとも塩梅で「百万遍念仏」とすることがしばしばなのだが、それはともかく互いの念仏の功徳を融通し合うような後者の称え方は「融通念仏」に相通ずるものがある。

 融通念仏を興した良忍上人の事績と念仏の功徳を描いた絵巻物『融通念仏縁起』には疫神(疫病神)が登場する。時は正嘉年間(1257〜1259)、武蔵国与野郷の名主が疫病から逃れるために一族で別時念仏を勤めようと、参加者名を記した番帳を仏前に置いておいた。するとその夜、夢に異形の疫神が大勢現れて家の門から中に入ろうとするので、別時念仏を勤めるので乱入せぬよう告げる。疫神は「それなら番帳を見せろ」と言い、名主は言われるままに見せるのであるが、この番帳には他所に嫁いだ娘の名が記されていなかった。そこで「娘の名を番帳に加えたい」と名主は申し出るのだが疫神がこれを認めない、というところで夢から覚める。番帳に名を連ねた者は何事もなかったが、他所に嫁いでいた名主の娘だけが疫病に罹って死んでしまうというものである。


『融通念仏縁起』下巻「正嘉疫癘の段」(クリーブランド美術館所蔵)

 融通念仏縁起絵巻諸本のうち、正和3年(1314年)に成立し原本として想定される絵巻の面影を最もよく写し伝える絵巻は「シカゴ・クリーブランド本」と呼ばれ、シカゴ美術館に上巻(参照)が、クリーブランド美術館に下巻(参照)が分蔵されている。

 クリーブランド本は詞12段、絵12段から成り、本来は「勧進文の段」に続く「正嘉疫癘の段」を最終段とするが、現状では錯簡が生じて「正嘉疫癘の段」に続く「勧進文の段」が最終段に配されている。この「勧進文」とは、融通念仏を弘通するために絵巻を流布する勧進の意趣を述べたものであるが、この「勧進文」に「摂益文」(光明徧照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨)と「摂取不捨曼陀羅」とが加わって「勧進文の段」は構成されている。


『融通念仏縁起』下巻「摂取不捨曼陀羅」(クリーブランド美術館所蔵)

 阿弥陀仏は十方に光明を放つといえども、念仏者のみ照らされて、余行を修する者にはその救済の光は当たらない。「摂取不捨曼陀羅」は法然門下によって考案された曼陀羅であった。法然上人の阿弥陀信仰、あるいは摂益文の趣旨を如実に表現したものではあったが、念仏弾圧の一因となり、建永2年(1207年)の法難で徹底的に廃棄された。そうした専修念仏の曼陀羅を、融通念仏の曼陀羅として摂益文とともに取り入れたのが『融通念仏縁起』なのである。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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