March 21, 2014

「桜梅桃李」と「楊梅桃李」

 桜の開花があちこちで聞かれるようになった。標本木で知られる染井吉野は、まるで日本の原風景のような顔をしている。けれどもじつは染井吉野の歴史はとても浅く、接ぎ木によるクローンで明治以降に爆発的に広まったものである。いわば、「演歌は日本の心」的な幻想ということになる。古くは「桜」といえば山桜と、相場が決まっていた。

 13世紀中頃に編纂された説話集『古今著聞集』(参照の第19巻、第29篇「草木」の冒頭にこうある。

あゝ春は櫻梅桃李の花あり、秋は紅蘭紫菊の花あり、皆是れ錦繍の色、酷烈の匂なり。然れども昨開き今落ち、遅速異なると雖も、風に隨い露に任せ、變衰遁れず。有爲を樂しむに似て、無常を觀ず可し。
(橘成季『古今著聞集』有朋堂書店、1926年、573頁、原漢文)


 春には桜、梅、桃、李(スモモ)の花が咲き、秋になると紅い蘭や紫色の菊の花が咲く。いずれもそれは美しく、また芳しい香りを漂わせる。けれども昨日咲いたかと思えば今日はもう萎れてしまうといった具合に、遅い速いはあれどやがて枯れていく。そんな花の命の短さに、人の世の無常をずっと重ね見てきたのである。

 「桜梅桃李」とよく似た言葉に「楊梅桃李」というものがある。こちらは13世紀前半に成立したとされる『平家物語』第3巻の「少将都帰」という文中に出てくる。「楊梅(ヤマモモ)・桃・李」という解釈も可能かもしれないが、「楊(ヤナギ)・梅・桃・李」が正解である。

 「桜梅桃李」と「楊梅桃李」、どちらが先に出てきたのか判然としないのだが、これらから少し遅れて14世紀初頭に編纂された『法然上人行状絵図』第21巻にも「桜梅桃李」が出てくる。

近来の行人、観法をなす事なかれ。佛像を観ずとも、運慶・康慶が造りたる佛程だにも観じあらわすべからず。極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花菓程も、観じあらわさん事かたかるべし。
(『平成新版 元祖大師御法語 前篇』総本山知恩院、81-82頁)


 法然上人の時代、社会は末法思想によって覆い尽くされていた。人も社会も濁り切っているため、修行などとても覚束ないと考えられた。だから観想の行法を実践して仏を想い描こうとしても、運慶や康慶といった仏師が造立した仏像ほどもイメージできないであろうし、極楽の荘厳を想い描こうとしても、桜、梅、桃、李の花や果実ほどもイメージすることは困難であろう。そうした観想の念仏を廃して願往生の念仏を称えよと、法然上人は言われたのである。

 ちなみに、浄土宗では慣例として「桜梅桃李」を「おうばいとうり」ではなく「ようばいとうり」と発音する。じつは「桜」という字には「おう」(漢音)よりも古い「よう」(呉音)という音読みが存在するのである。仏教はおよそ欽明帝の時代に伝来したため、例外は見られるものの呉音が基調をなしている。

 道元禅師の『正法眼蔵』(参照)第53巻「梅華」では、「楊梅桃李」が採用されている。

春を畫圖するに、楊梅桃李を畫すべからず。まさに春を畫すべし。楊梅桃李を畫するは、楊梅桃李を畫するなり、いまだ春を畫せるにあらず。春は畫せざるべきにあらず。
(道元『正法眼蔵』鴻盟社、1926年、539頁)


 楊梅桃李が春を彩るからといって楊梅桃李を描いても、やはりそれは楊梅桃李。春を描くならやはり春を描かなければならないというものである。じつは楊梅桃李をはなれて春は存在しない。というよりも、目の前の楊の一枝一枝、梅の一輪一輪こそが春そのものであり、その一枝一枝、一輪一輪をはなれて「春なるもの」が存在することはないのである。

 また、日蓮聖人の高弟・日興上人が日蓮聖人の講義を筆録したとされる『御義口伝』(参照)では、「桜梅桃李」が用いられている。

是れ卽ち櫻梅桃李の己己の當體を改めずして無作三身と開見すれば、是れ卽ち量の義なり。
 (日興『御義口伝』日蓮宗布教助成会、1933年、132頁)


 桜は桜のまま、梅は梅のまま、桃は桃のまま、李は李のまま、それぞれがそれぞれのままでいい、みんな違ってみんないいといった趣である。こういう感性は現代人にも理解されやすいように思う。今日において、『御義口伝』は偽撰であるという説が定着しつつあると聞くが、「桜梅桃李」から展開された多様性の思想そのものは、決して悪いものではない。

 ところで、『万葉集』には4,500余首の歌が詠まれているが、その3分の1に当たる1,548首は植物を扱ったものである。最もよく詠まれたのが萩で、次いで梅、松、橘と続く。

  1. 萩・・・・・・138首
  2. 梅・・・・・・119首
  3. 松・・・・・・・81首
  4. 橘・・・・・・・66首
  5. 桜・・・・・・・41首
  6. 柳・・・・・・・39首
  7. 卯の花・・・22首
  8. 竹・・・・・・・19首
  9. 山吹・・・・・17首

 梅は萩に次いで多く詠まれているが、これは当時の中国で梅の花が愛でられていたことの模倣である。つまり、万葉時代においては梅の花を詠むことが貴族のたしなみとされていたわけだが、古くから親しまれていたのは桜であった。『万葉集』よりも古い『日本書紀』や『古事記』では、桜についての言及は見られるものの、梅については触れられていないのである。

 やがて大陸への憧れがほどけて、遣唐使は廃止される。梅の人気も平安末期の頃にはすっかり衰えて、桜が持て囃されるようになっていた。春は山桜、秋は萩というのが日本の景色だったのである。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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