April 18, 2017

お香の日

 4月18日は「お香の日」である。1992年に日本薫物線香工業会(参照)の前身である全国薫物線香組合協議会によって制定された。

 『日本書紀 巻第二十二』(参照)に「推古天皇3(595)年の4月に沈香木が淡路島に漂着した」とあるのだが、これが日本のお香にまつわる最初の記述であることと、「香」の字を分解すると「一十八日」になるといった理由らしい。

 この沈香木をご神体として祀っている神社が淡路島にあるということで、今年1月に参拝してきた。






 境内の看板にもあるように、はじめ島民は一抱えほどの流木がじつは沈水(沈香)であると知らず薪に交ぜて竃でくべてしまう。そうしたところ芳香が辺り一面に広がったため、これはただならぬものであると騒ぎになって朝廷に献上されたということである。

 さらに看板にはこう続く。

その中で一番大きい香木を天皇に献上。大喜びの天皇は念願の観音様を造立、祭祀なされた。二m余りの割合細い香木も下の浜辺に漂着。浦人は流木を薪にしようと鋸で引きかけた。すると忽ち障りがおきる。恐れた浦人は何回も沖へと流したが浜辺へと漂着してくるために社を建てお祀された。

 なかなか微に入り細を穿っている。そしてこの伝承が『日本書紀』に加えて『聖徳太子伝暦』(参照)に依拠しているであろうことも察せられる。

三年乙卯春、土佐の南海に夜な夜な大なる光あり。また聲ありて雷の如し。三十箇日を經たり。夏四月、淡路島の南の岸に着く。島人沈水と知らず、以て薪に交へ竃に焼く。太子、使ひを遣はし獻せしむ。其の大きさ一圍、長さ八尺、其の香り異に薰す。太子觀て大いに悦びて奏して曰く、是を沈水香とするものなり。此の木をば栴檀香と名づく。木は南天竺國の南海の岸に生じたり。夏の月、諸の蛇相繞り。此の木冷しきが故なり。人矢を以て射る。冬の月、蛇の蟄するとき即斫って之を採る。其の實は雞舌、其の花は丁子、其の脂は薰陸。水に沈みて久しきをば沈水香とす。久しからざるを淺香とす。而るに今陛下釋教を興隆し、肇て佛像を造り玉ふが故、釋梵德に感して此の木を漂はし送れり。即ち勅ありて百濟の工に命して檀像を刻み造りて觀音菩薩となして、髙さ數尺、吉野の比蘇寺に安する。
(写本『聖徳太子伝暦 2巻』室町後期、元漢文)


 推古天皇3年、このとき聖徳太子は24歳であった。仏教興隆のため仏像を建立したいと天皇が願っていたところ、その志に感心した帝釈天や梵天といった神々が沈香木を手向けたというものである。そして天皇は百済の仏師にこの香木から観音菩薩像を作らせ、それを吉野の比蘇寺(世尊寺)に安置したということである。

 いい話だなと思った。そして看板の最後のメッセージに目が釘づけとなる。

神社裏に子宝石があります。

 下りてみた。





子宝石
昔から枯木神社の夏祭りに潮浴びをすると子宝に恵まれるといわれる。毎年七月土用に入った初めての子の日の宵宮に夜のとばりが下りたころ、浜辺から歩いていける所に子宝石が十個ぐらい横一列に並ぶ。女人が色とりどりの肌襦袢、腰巻き姿で石に坐り四方山話に興じる。その間にも小波が打ち寄せ、その度に薄い襦袢の前が開き、腰巻きがふわっと舞い上がる。あわてて女人が可愛い声を上げて押え込むが、すぐ波が寄せてくる。それを浜辺に腰をおろしてよそ目でチラチラ眺める男性諸君の顔、顔。

 これもいい話だなと思った。ちなみにこの枯木神社から車で10分くらい走ると国生み神話で知られる伊弉諾神宮がある。


Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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