June 11, 2016

業(カルマ)のゆくえ

 先月27日にオバマ大統領が広島を訪問した。とりわけ印象的だったのは自身も被爆者でありながら被爆死した12名の米兵捕虜の研究をしてきた森重昭氏と大統領との抱擁であるが、大統領のスピーチ原稿についてもローズ大統領副補佐官によるところが大きいのではないかという憶測が飛び交ったりとそこそこ話題となった。NHKの「オバマ大統領の広島訪問 所感(全文動画)」(参照)からその冒頭部分を引いてみる。

Seventy-one years ago, on a bright, cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.
71年前の晴れた朝、空から死が降ってきて世界が一変しました。せん光が広がり、火の海がこの町を破壊しました。そして、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示したのです。

 この、主語がスルリと抜け落ちた感じはどこか見覚えがあった。それは奇しくも大統領が演説していた場所の斜め後方に佇む、慰霊碑に刻まれた碑文である。

安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから

 死を空から降らせるという過ちを犯したのは誰なのか。じつはこの碑文をめぐっては幾多の論争が繰り広げられてきており、広島市は碑文の中の「過ち」について「一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています」(参照)としている。このことからも碑文の主語は「人類」だということが解るのであるが、オバマ大統領の所感中の主語も人類全体と読み取れるものがほとんどであったし、もっと言えば、合衆国政府と人類全体とが溶け合うような修辞が秀逸というほかなかった。

 今村昌平監督は『カンゾー先生』(参照)において、何でも肝臓病と診断する瀬戸内の町医者「カンゾー先生」に「肝臓じゃ、ありゃあ肝臓の形をした雲じゃ。えろう肥大しとるわい」と広島の空に伸びたキノコ雲を言わせてみせた。日本のみならず人類全体の様々な歪みが広島、そして長崎の空にキノコ雲として現れ出たといった見立ては凡庸とさえ言えるかもしれないが、それはそれとして、ではなぜ広島と長崎でなければならなかったのだろうか。

 話は変わるが、5年前の東日本大震災が発生して間もない2011年3月14日、当時の都知事であった石原慎太郎氏が「これはやっぱり天罰だと思う」と発言して物議を醸したことは記憶に新しい。

この津波をうまく利用してだね、我欲をやっぱり1回洗い落とす必要があるね。積年たまった日本人の心の垢をね。これはやっぱり天罰だと思う、そら被災者の方々かわいそうですよ。

 翌15日に石原氏は自身の発言を撤回、謝罪するに至っているのであるが、「極東ブログ」がこのあたりの経緯を「石原慎太郎・東京都知事によるとされる「天罰」発言のこと」(参照)として拾い上げている。このブログ記事において、石原氏のいう「天罰」が東北の被災者に限定されたものではなく日本国民全体を対象とするものであったこと、さらには石原氏から『立正安国論』的な発想が窺えることが指摘されている。

 ところが石原氏の「天罰」発言撤回からほどなくして、今度は国際日本文化研究センター教授の末木文美士氏によって「天罰という見方は、必ずしも不適当と言えない」といった主旨の論考(参照)が4月26日付の中外日報に掲載され、やはり論争を巻き起こした。そして末木氏の場合は「日蓮の『立正安国論』では、国が誤れば、神仏に見捨てられ、大きな災害を招くと言っている。その預言を馬鹿げたことと見るべきではない」と『立正安国論』への共鳴が明かされた。

 末木氏によると「天罰」という言葉は室町後期の天道信仰の中で使われるようになったらしいが、この「天罰」という漠然とした概念による議論に煮え切らないものを感じるようにもなっていった。「業」(カルマ)によるアプローチを試みる論客も現れたが、末木氏はそれには消極的であることを隠さなかった。

 そうしていたところ、石巻市の被災寺院でダライ・ラマ法王を迎えて慰霊法要が行われたのだが法王のスピーチで会場に動揺が走ったという話が漏れ伝わってきた。7月にボランティアで通い詰めた門脇町の西光寺様であった。

 この2011年11月5日に行われた慰霊法要の様子は、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所が「8日目-2 石巻・法要/「悲劇を前向きに捉え、再建に取り組もう」—法王、津波の被災者に呼びかけを行う」(参照)というレポートとして総括している。法王のスピーチで問題となったと思われるのは以下の部分である。

 仏教の観点から言えば、全ては因果応報により起きる、と法王は語った。前世の誤った行為は、現世で報いを受ける。もし、特定の地域に住んでいる人々の悪いカルマが集合的に重なって蓄積すれば、地域全体に悪いことが起きるかもしれない。前世の行いの蓄積は、未来永劫、消えることがない、と述べた。

 正直、これはなかなか厳しいなと思った。しかしながら、スピーチの詳細を知らぬまま判断しても仕方がない。そこでより詳細に文脈が掴める記録を探したところ、「MMBA」(文殊師利大乗仏教会)が「談話:ダライ・ラマ法王石巻慰霊法要を終えて」(参照)として、法王の英語のスピーチを日本語に訳した全文とともに動画を掲載していた。





 MMBAの野村正次郎代表理事によって翻訳された当該部分を引いてみる。

苦しい状況というものは、みなさんが過去に為した何か間違った活動が原因となって起こることです。それは今生でやったことだけではなく、みなさんの前世でやったことかも知れないのです。集団が前世で同じように何か間違った行動をし、そしていま今生でここに一堂に会して、同じ時期に、同じ場所にいま生まれているのです。そしてこれがみなさんが同じような悲劇を共通して体験しなくてはならなくなっていることの原因なのです。仏教的な教えによればどのような業であっても、それがいくら永い時間が経ったとしても決して消えないと言われています。

 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所の要約文ではいまひとつ分からなかったが、これではっきりと意味が読み取れた。また、文脈から切り離すことによって何か大きく文意が変化するということもない。予想していた通り、文意が明確になったことで「業」の理解に大きな隔たりがあることを確認したのである。

 ただし、動画を見れば分かるように聴衆から動揺は感じられない。それもそのはず、法王のスピーチは英語であり、通訳を通してはじめて聴衆の多くは法王のスピーチを理解したはずなのである。どこかに記録はないかと探すと、あった。大型モニターに法王が映し出されながら通訳の音声が流れている20分弱の動画がYouTubeに投稿されていた。





 通訳はいつものマリア・リンチェン氏(日本人)であることが判る。2009年に松山市で法王が講演されたときもやはり彼女が通訳として随行していたが、それはさておき動画を確認したところ残念ながら肝心の部分はカットされていた。法王のベテラン通訳である彼女がどんな言葉を選んだのかが気になるところだが、おそらく法王の「業」理解の核心を短い言葉で切り出して見せたのではないか。そんな気がしている。

 本来、「業」とは身体的動作や言葉、思考といった「行為」全般を意味する言葉であったが、輪廻思想と結びつくことで死後のあり方にも影響を及ぼすと考えられるようになり、ついにはその影響が及んでいく働きまで意味するようになった。

 世間一般ではあまり知られていないと思われるが、近年、仏教界では「業」をどう取り扱うかということが問題となっている。善悪の行為の報いが現世にとどまることなく輪廻転生を介して来世や来々世以降に苦楽となって現れるというのが「業報輪廻」の思想であるが、この思想は苦しい状況に置かれた人は前世において悪を為したのだと断じかねない危険性を孕んでいるのである。そして、現実にそうした差別を助長してきた問題が指摘されているのである。

 業報輪廻思想は仏教が起こる以前からすでに登場していたが、釈尊は人間の苦楽すべてを「宿命」(前世の業)で説明しようとするのは誤りであると説いた。皮肉にもこの誤りが常態化してしまって「宿命」はもはや「前世の業」によって定められた「運命」という意味でしか使われなくなってしまい、「前世の業」という方の意味はほぼ失われてしまったのだが。『中阿含経』巻三「度経」(参照)に次のようにある。

三度處有り、姓を異にし、名を異にし、宗を異にし説を異にす。謂く有慧者善く受け、極持して而も他の爲に説き、然も利を獲ず。云何が三と爲す。或は沙門梵志有り、是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆宿命の造に因ると謂ふ。また、沙門梵志有り、是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆尊祐の造に因ると謂ふ。また、沙門梵志有り、是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆無因無縁なりと謂ふ。(1)中に於て、若し沙門梵志有りて是の如く見、是の如く説き、人の所爲は、一切皆宿命の造に因ると謂はゞ、我すなはち彼に往き、到り已りて卽ち問はん、諸賢、實に是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆宿命の造に因ると謂ふやと。彼答へて爾りと言はゞ、我また彼に語げん、若し是の如くならば、諸賢等皆これ殺生なり。所以者何。その一切皆宿命の造に因るを以ての故なり。是の如く諸賢は皆これ不與取、邪婬、妄言乃至邪見なり。所以者何。その一切は皆宿命の造に因るを以ての故なり。諸賢、若し一切皆宿命の造に因ると如眞に見ば、内因内の作と不作とに於て都て欲無く、方便無けん。諸賢、若し作と不作とに於て、如眞を知らざればすなはち正念を失ひ、正智無ければ則ち以て教ふべき無し。沙門の法の如き、是の如く説かば乃ち理を以て彼の沙門梵志を伏すべし。(2)中に於て、若し沙門梵志有りて、是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆尊祐の造に因ると謂はゞ、我すなはち彼に往き、到り已りて卽ち問はん、諸賢、實に是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆尊祐の造に因ると謂ふやと。彼答へて爾りと言はゞ、我また彼に語げん、若し是の如くならば、諸賢等皆これ殺生なり。所以者何。その一切皆尊祐の造に因るを以ての故なり。是の如く諸賢は皆これ不與取、邪婬、妄言乃至邪見なり。所以者何。その一切皆尊祐の造に因るを以ての故なり。諸賢、若し一切皆尊祐の造に因ると如眞に見ば、内因内の作と不作とに於て都て欲無く、方便無けん。諸賢、若し作と不作とに於て、如眞を知らざればすなはち正念を失ひ、正智無ければ則ち以て教ふべき無し。沙門の法の如き、是の如く説かば乃ち理を以て彼の沙門梵志を伏すべし。(3)中に於て、若し沙門梵志有りて、是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆無因無縁なりと謂はゞ、我すなはち彼に往き、到り已りて卽ち問はん、諸賢、實に是の如く見、是の如く説き、人の所爲は一切皆無因無縁なりと謂ふやと。彼答へて爾りと言はゞ、我また彼に語げん、若し是の如くならば、諸賢等皆これ殺生なり。所以者何。その一切皆無因無縁なるを以ての故なり。是の如く諸賢は皆これ不與取・邪婬・妄言乃至邪見なり。所以者何。その一切皆無因無縁なるを以ての故なり。諸賢、若し一切皆無因無縁なりと如眞に見ば、内因内の作と不作とに於て都て欲無く、方便無けん。諸賢、若し作と不作とに於て、如眞を知らざればすなはち正念を失ひ、正智無ければ則ち以て教ふべき無し。沙門の法の如き、是の如く説かば乃ち理を以て彼の沙門梵志を伏すべし。
(T0026_.01.0435a26-c09、原漢文)


 この「度経」において、釈尊はいわゆる「三種外道」と呼ばれる3つの一元論を批判している。

  1. 「宿作因論」……人間の行いはすべて宿命(前世の業)が原因である。
  2. 「尊祐造論」……人間の行いはすべて尊祐(自在天)の創造が原因である。
  3. 「無因無縁論」…人間の行いはすべて無因無縁(偶然)である。 

 もしも人間の行いがすべて前世の業によるならば、十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見)を犯すまいと思っても犯してしまうだろう。また「これを為そう、これを為すまい」といった意欲や努力も失われてしまう。すべてを前世の業に求める修行者がいたら、道を誤らせぬよう道理で説き伏せるべきである。また、人間の行いがすべて自在天の創造によるといった説、或いはすべて偶然であるといった説も同様であると、釈尊は説かれたのである。

 このように、現世における行いや苦楽の原因のすべてを前世の業に求めてはならないと釈尊は説かれたわけであるが、ならばどういう場合なら前世の業に求められるのだろうか。『増一阿含経』巻二十一「苦楽品」(参照)には次のように説かれている。

「四事有り、終に思議すべからず。云何が四と爲すや、衆生は思議すべからず、世界は思議すべからず、龍國は思議すべからず、佛國境界は思議すべからず。然る所以は、此の處に由って滅盡涅槃に至ることを得ざればなり。云何が衆生不可思議なるや、『此の衆生は何れより來ると爲し、何れより生ずと爲し、復何れより起り、此れより終るや。當に何より生ずべきや』と。是の如きが衆生不可思議なり。
(中略)
是の如く比丘、此の四處有って不可思議にして、是れ常人の思議する所に非ず。然して此の四事に善き根本無く、亦此れに由って梵行を修むることを得ず、休息の處に至らず、乃至涅槃の處に到らず。但人をして狂惑し、心意錯亂して諸の疑結を起さ令む。
(T0125_.02.0657a19-c02、原漢文)


 まず最初に、思惟すべきでないものとして「四事」(衆生・世界・龍国・仏国境界)が挙げられている。脚注によるとこれらはパーリ仏典『増支部』所説の「四の不可思議」(仏の境界・禅定の境界・業異熟・世間思)に相当するものであり、「龍国」と「禅定の境界」とが対応していないのを除いて「衆生」と「業異熟」、「世界」と「世間思」、「仏国境界」と「仏の境界」とがそれぞれ対応関係にあることが判る。

 内容的には、「衆生」の業報の因果をあれこれ思惟したところで煩悩が滅尽して涅槃に到ることはないと説く。また凡夫が「四事」を思惟してもロクなことがなく、ただ錯乱するばかりで解脱からは程遠く、よって「四事」ではなく「四諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を思惟すべきであると続いている。

 要するに、この世における苦楽を前世の業であれこれ説明しようとすることは「百害あって一利なし」というものである。それから「業異熟」について触れておくと、「善因楽果・悪因苦果」というように「善悪」を基準とする業因から「苦楽」という「無記」(善でも悪でもなく中立的)なる果報がもたらされることを「業異熟」という。

 そして『雑阿含経』第二十六では、仏に特有な「十力」(処非処智力・業異熟智力・静慮解脱等持等至智力・根上下智力・種種勝解智力・種種界智力・遍趣行智力・宿住随念智力・死生智力・漏尽智力)が論じられている。(参照

復た次に如來は、過去未來現在の業法に於て受因、事報を實の如く知るなり。是れを第二の如來力と名づく。如來應等正覺は此の力を成就して先佛の最勝處を得、能く梵輪を轉じ、大衆の中に於て師子吼を作して吼ゆるなり。
(中略)
此の如き十力は唯だ如來のみ成就す。是れを如來と聲聞との種種の差別と名づく』と。
T0099_.02.0186c19-0187b05、原漢文)


 仏は「十力」の1つである「業異熟智力」によって三世にわたる業報の因果を如実に知ることができるが、こうした「十力」は仏のみに備わったものであり、仏と仏弟子(声聞)とは明確に区別されるというものである。

 ところで前掲のダライ・ラマ法王の談話(参照)を読めば、現世における苦楽の原因の多くを前世の業に求めつつも、それが必ずしも自由意志や努力を認めないような宿命論(宿作因論)となってはいないことが分かる。

だからこそみなさんは、いま前を向いて進んでいくべきです。自分たちの新しい生活を導いて行かなくてならないのです。そう心に決意して、同時に自分の生活を誠実でよきものとし、正しい生き方をするべきです。そしてこれがポジティブな業となるのですし、ポジティブな活動だと言われるものです。ポジティブで正しい活動、それは他者に対する思いやりのある活動です。これが計り知れないほどポジティブな業の力となるのです。

 チベット仏教において業の教理がどのように体系化されているのか、そしてより厳密に言えば、法王を擁する最大宗派のゲルク派の教義はどのようなものであるかについて学んでみるのも悪くないかもしれない。チベット仏教は日本の諸宗と同様に大乗の流れを汲むものの、そこに大きな違いがあるのは論ずるまでもないからである。

 釈尊の入滅後およそ100年頃から数百年かけて20の部派に分裂していった「部派仏教」の時代に、説一切有部を中心として業思想は理論的に体系化された。ちなみに上に引用した3つの阿含経典は分裂前の「初期仏教」の経典である。その後、説一切有部への批判・否定から「大乗仏教」が興起するが、自身の善根功徳を他者に手向けるといった「回向」は「自業自得」の原則を崩すものであった。業思想はこれからどのように展開していくのだろうか。

 そして、おそらく広島と長崎への原爆投下についても法王の発言があるだろうと調べたら、やはりあった。ダニエル・ゴールマンによる法王らとの対談集『心ひとつで人生は変えられる』(参照)の中で、業とはまた異なる視点で原爆投下について論じられている。ところが、これがまた強烈で思わず仰け反ってしまった。本書では当然のごとく業についても話が及ぶが、いずれにせよそれらの内容についてここで触れるつもりはない。とてもじゃないが身が持たないからだ。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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