January 26, 2014

隠没の相

 昨年、末木文美士氏の近著『浄土思想論』(参照)を読んだのだが、なかなか読み応えがあったらしい。年を越えてもあれこれ考えている。

 現在の『無量寿経』は願文の数が48あるが『大阿弥陀経』や『平等覚経』といった経典では24しかなく、よって阿弥陀信仰の古い形態を伝えるものと考えられていることが触れられている。そして『大阿弥陀経』では阿弥陀仏がやがて涅槃に入り、その跡目を観音菩薩が継ぎ、さらにその跡目を勢至菩薩がという具合に、阿弥陀仏にも寿命らしきものがあると説示されていることまで話が及ぶ。

 じつは阿弥陀仏の般涅槃について触れている経典としては『大阿弥陀経』より『観音授記経』のほうが名が通っている。具には『観世音菩薩授記経』(以下『授記経』)というが、当該部分(参照)を引いてみた。

佛言。善男子。阿彌陀佛壽命無量百千億劫。當有終極。善男子。當來廣遠不可計劫。阿彌陀佛當般涅槃。般涅槃後。正法住世等佛壽命。在世滅後。所度衆生悉皆同等。佛涅槃後。或有衆生不見佛者。有諸菩薩。得念佛三昧。常見阿彌陀佛。
(T0371_.12.0357a05-10) 


 以下、要点を3つにまとめた。

  • 阿弥陀仏の寿命は無量百千億劫という計り知れないものであるが、それでもやはり終極がある。
  • 阿弥陀仏が涅槃に入っても、正法は阿弥陀仏の寿命に相当する時間は世にとどまり、それまでと変わらず平等に衆生を済度する。
  • 阿弥陀仏の般涅槃後、阿弥陀仏を見ることができない衆生がいる一方で、念仏三昧を発得してつねに阿弥陀仏を見る菩薩もいる。

 いろいろ難しい内容である。阿弥陀仏不在の極楽浄土に済度された衆生は、阿弥陀仏を見ることができない。しかし現世において念仏三昧を発得していた菩薩は、極楽においても阿弥陀仏を見ることができるというものである。「念仏三昧」自体が見仏を伴うものなので、それはそうだろうと思ったりもする。

 道綽禅師は『安楽集』(参照)において「阿弥陀仏は常住というが『授記経』に阿弥陀仏の般涅槃後に観音菩薩がその代役を務めると説示されているのはどういうわけか」との問いに答える。

答えて曰く、これはこれ報身、隠没の相を示現す。滅度には非ず。彼の経に云わく、「阿弥陀仏入涅槃の後、また深厚善根の衆生有りて、還りて見ること故のごとし」と。すなわちその證なり。
(T1958_.47.0006a02-04、原漢文)


 こちらの要点は2つほどになろうか。

  • 阿弥陀仏の報身が「隠没の相」を現すもので「滅度」ではない。
  • なぜならば『授記経』に「阿弥陀仏が涅槃に入っても、善根の大きな衆生は極楽に還って阿弥陀仏を見る」と説かれているからである。

 ところで「度」は「渡」に通じる。阿弥陀仏が浄土で滅んでどこか別の世界に渡って行くという話ではない、ということだろう。また善導大師も『観無量寿経疏』(参照)において「阿弥陀仏は報身にして不生不滅というが、『授記経』に阿弥陀仏の般涅槃が説かれているのをどう解釈すればよいのか」との問いに答えている。

答えて曰く、入不入の義は、ただこれ諸仏の境界にして、なお三乗浅智の闚う所に非ず、あにいわんや小凡輒く能く知らんや。然りといえども必ず知らんと欲せば、あえて仏経を引いて、以て明証とせん。何ぞや。『大品経』の涅槃非化品の中に説いて云うがごとき、「仏、須菩提に告げたまわく、汝が意において云何。もし化人有って化人を作す、この化、すこぶる実事にして、空ならざる者有りや不や。須菩提言さく、不なり、世尊。仏、須菩提に告げたまわく、色すなわちこれ化なり、受想行識すなわちこれ化なり、乃至一切種智すなわちこれ化なり。須菩提、仏に白して言さく、世尊、もし世間の法、これ化なり、出世間の法もまたこれ化ならば、いわゆる四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分、三解脱門、仏の十力、四無所畏、四智礙智、十八不共法、并びに諸法の果、および賢聖人のいわゆる須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、菩薩摩訶薩、諸仏世尊、この法もまたこれ化なりや不や。仏、須菩提に告げたまわく、一切の法皆これ化なり。この法の中に、声聞法の変化有り、辟支仏法の変化有り、菩薩法の変化有り、諸仏法の変化有り、煩悩法の変化有り、業因縁法の変化有り、この因縁を以ての故に、須菩提、一切の法皆これ化なり。須菩提仏に白して言さく、世尊、この諸々の煩悩断のいわゆる須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道の、諸々の煩悩習を断ぜるも皆これ変化なりや不や。仏、須菩提に告げたまわく、もし法の生滅の相有るは、皆これ変化なり。須菩提言さく、世尊、何等の法か変化に非ざる。仏の言わく、もし法の無生無滅なる、これ変化に非ず。須菩提言さく、何等かこれ不生不滅にして、変化に非ざる。仏の言わく、無誑相涅槃、この法のみ変化に非ず。世尊、仏自ら説きたまうがごときは、諸法は平等にして、声聞の作に非ず、辟支仏の作に非ず、諸々の菩薩摩訶薩の作に非ず、諸仏の作に非ず、有仏のとき無仏のときも、諸法の性は常に空なり、性空はすなわちこれ涅槃なりと。云何ぞ涅槃の一法のみ如化に非ざる。仏須菩提に告げたまわく、如是如是。諸法は平等にして声聞の所作に非ず、乃至性空すなわちこれ涅槃なり。もし新発意の菩薩、この一切の法皆畢竟性空なり、乃至涅槃もまた皆如化なりと聞かば、心すなわち驚怖しなん。この新発意の菩薩の為の故に、生滅の者は如化、不生不滅の者は如化にあらずと分別するをや」。今すでにこの聖教を以て、験らかに知んぬ、弥陀は定んでこれ報なり。たとい後に涅槃に入るとも、その義妨げ無し。諸々の有智の者知るべし。
(T1753_.37.0250c01-0251a06、原漢文)


 少々長い引用であるが『大品経』からの煩瑣な引用部分を大幅に割愛し、要点を3つにまとめてみた。

  • 阿弥陀仏の般涅槃は人間界のそれとは次元の異なるもので、よって凡夫の手に負えるものではないが、『大品経』の「涅槃非化品」に阿弥陀仏が報身にして不生不滅である証拠を求めることができる。
  • 一切の法は詰まるところ本性において「空」であり、涅槃もまた仮の姿である。「新発意の菩薩」(新参の求道者)にそれはショッキングなことであるため、生滅の相をなすものは仮の姿、不生不滅の相をなすものはそうではないと区別するのである。(『大品経』引用部分)
  • このように『大品経』を以てからして阿弥陀仏は報身と定まっている。たとえ般涅槃の相を現すとしても報身であることに差し支えるものではない。

 報土(浄土)で語られる仏は報身、よって不生不滅であるという論理のフレームである。

 『大品経』からの引用は新米の菩薩を慮る老婆心で結ばれる。いつだったか、私の坊主頭をしみじみ眺めながら「お前、結婚するまでは髪を伸ばしたらどうか」とこぼした母の顔をうっかり思い出してしまった。

 それから恵心僧都源信も『往生要集』(参照)において阿弥陀仏の般涅槃に触れている。阿弥陀仏の報身が「隠没の相」を現すとする道綽禅師に対し、それはじつの報身ではないとする迦才がおり、「どちらが正しいのか」という問いに答える。

答う。迦才の云く、
衆生の行を起すにすでに千殊有れば、往生して土を見るもまた万別有り。もしこの解をなさば、諸々の経論の中にあるいは判じて「報」となし、あるいは判じて「化」となすも、皆妨難無し。ただ諸仏の修行はつぶさに報・化の二土を感ずることを知りぬ。『摂論』に、「加行は化を感じ、正体は報を感ず」と云うがごとし。もしは報、もしは化、皆衆生を成就せんと欲するなり。これすなわち土は虚しく設くるにあらず、行は空しく修するにあらず、ただ仏語を信じ、経に依りて専念せばすなわち往生することを得ん。またすべからく報と化とを図度すべからず、
と。(已上)この釈、善し。すべからく専ら称念すべく、分別を労すること勿れ。
(T2682_.84.0079b03-10、原漢文)


 迦才の煩わしい引用をまとめ、要点を2つに絞った。

  • 迦才は「仏が理由もなく浄土を構えるはずはなく、仏の言葉を信じて一心に念仏すれば往生できる。あれこれ忖度すべきではない」と。
  • なるほど、ひたすら口称念仏に励むべきで、分別に骨を折っても仕方がない。

 そして法然上人も『選択本願念仏集』(参照)において、道綽禅師が阿弥陀仏の般涅槃に触れた上述のくだりを引いている。

『安楽集』に云く、「念仏の衆生は摂取して捨てたまわず、寿尽きて必ず生ず。これを始益と名づく。終益と言うは、『観音授記経』に依るに、云く阿弥陀仏の住世長久、兆載永劫にして、また滅度したまうこと有り。般涅槃の時、ただ観音勢至有って安楽を住持して十方を接引す。その仏の滅度また住世の時節と等同なり。然るに彼の国の衆生、一切仏を覩見する者有ること無し。ただ一向に専ら阿弥陀仏を念じて往生する者のみ有って、常に弥陀現在して、滅したまわざるを見る。これはすなわちこれその終益なり」。
 (T2608_.83.0014c03-11、原漢文)


 念仏の現世におけるご利益を「現益」、当来世(来世)におけるご利益を「当益」と呼ぶが、この「当益」にさらに2つがあるというものである。以下、要点を2つにまとめてみた。

  • 念仏者は命終えるとき必ず極楽に往生するが、これを「始益」という。
  • 阿弥陀仏の般涅槃後、諸行で往生した者は阿弥陀仏を見ることができないが、念仏往生した者は阿弥陀仏を見ることができる。これを「終益」という。

 法然上人においては念仏の功徳の大きさが前面に打ち出される。また『授記経』において「見仏」という決定的に重要な要素をもたらしていた三昧発得が、いつの間にか姿を消していることに気づく。現世における修行としての観想念仏から、極楽に往生するための称名念仏へと、念仏が変容していく過程が浮き彫りになるのである。

 先徳が阿弥陀仏の般涅槃にこれほど関心を寄せてきたのは、言うまでもなく阿弥陀仏の報身が真如へ入るのか否かという問題であるからに他ならない。顧みれば法然上人は『逆修説法』の「四七日」において、報身と法身は別物ではないと指摘している。

先ず法身とはこれ無相甚深の理なり。一切の諸法、畢竟じて空寂なるをすなわち法身と名づく。次に報身とは別物にあらず、かの無相の妙理を解り知る智恵を報身とは名づくるなり。所知をば法身と名づけ、能知をば報身と名づくなり。この法・報の功徳、法界に周遍せり、菩薩二乗の上、乃至六趣四生の上にも周遍せずということなし。
(『昭和新修法然上人全集』平楽寺書店、1955年、255頁、原漢文)


 法身とは真如の理であり、その真如の理を悟る智慧を報身という。法蔵菩薩が兆載永劫の修行に報いられて阿弥陀仏となったということは、真如の理が悟られたということに他ならない。そして念仏の衆生は報身の阿弥陀仏に帰命することによって、法界に周遍する功徳を感得していくのである。

 以上、『授記経』に説示される阿弥陀仏の般涅槃の展開を概観してきたが、『授記経』における説示そのものについては、斎藤舜健先生が『印度学仏教学研究』(第44巻第2号)に寄稿された論文「『観世音菩薩授記経』所説の阿弥陀仏の入滅」(参照)に詳しい。

 末木氏によると、丘山新氏や辛嶋静志氏らを中心として『大阿弥陀経』の研究が進められているそうであり、そうした学術的な研究成果にも注目している。


『浄土思想論』(末木文美士)

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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