July 4, 2018

『佛教の文様』(池修)


※ABC六本木店のTwitterアカウントは削除されている。


 ABC六本木店が閉店した。たくさんの人が別れを惜しんだようであるが、運よく先月上京する機会があったので立ち寄った。

 店内は足繁く通っていた90年代とあまり変わってなかった。「お世話になったな」と、何か記念に1冊買って帰ろうとしばらく店内をウロウロ歩き回っていたら『佛教の文様』(参照)という単行本が目に入った。パラパラとめくって「よし、これにしよう」と決めたところ、知らぬ間にすぐ隣で女装した中年男性が本棚を物色しており、何だかセレモニーに興を添えてくれているような気がした。

 本書は「打敷」に用いられてきた様々な文様を紹介している。「打敷」とは寺院の本堂や家庭の仏壇を荘厳するために「卓」に掛ける布をいうが、その図柄は「陰陽五行」と「有職」の影響を強く受けていると著者は指摘する。

仏教の伝来よりも古くから古代中国に存在した「陰陽五行」は、仏教の経典が漢訳された時にも影響を与えた可能性がありますが、日本にも伝わり、私達の潜在意識にまで入り込んでいます。従って「陰陽五行」は打敷としての織物作成時にも、色や文様、およびその数などにも影響を及ぼしました。また、皇族や公家なども仏教に関与したことから「有職」も取り入れられました。
(池修『佛教の文様』光村推古書院、2017年、9頁)


 まず「陰陽五行」についてであるが、あらましは以前に拙稿「丙申」(参照)で触れている。万物を「五行」(木・火・土・金・水)で読み解いていたわけであるが、季節・方角・色など、あらゆるものに「五行」が配当されていく。

  • 五時…春・夏・土用・秋・冬
  • 五方…東・南・中央・西・北
  • 五色…青・赤・黄・白・黒

 ところで、伝統色の「青」とはいわゆるグリーンである。現在のブルーは「縹」などと呼ばれ、それは時に「喪」の象徴であり、その色の濃さで「喪」の程度を表していた時代もあった。

 注意しなければならないのは、有職や仏教における「五色」が「青・黄・赤・白・黒」の順になることである。その理由については煩雑なのでここでは触れないが、やはり「青」はグリーン、ただし「黒」はパープルである。

 古来「位袍」(官位によって定められた色の袍)において「紫」は上位に位置づけられていたが、『養老律令』(757年)では天皇(黄櫨染)と皇太子(黄丹)を除く最上位の色が「紫」となり、それも濃いほど上位とされた。このため競って濃くしていった結果、「黒」と区別が付かなくなる事態に陥り、平安以降は四位以上の袍が「黒」となった。しかし、黒の染料は鉄分を含んでいるため経年劣化しやすく、「五色」の「黒」を今度は「紫」に読み替えるようになったのである。ちなみに五位は「赤」、六位は「縹」であり、この位袍は江戸時代まで引き継がれた。

 そういえばかつては僧侶の法衣においても、「紫衣」の下位に「緋衣」が置かれていた。つまり、官服の位袍が僧服に取り入れられていたのであるが、皇族が出家して門跡となったときに「緋衣」に似た赤衣を被着するようになったことで立場が逆転。「緋」が最高位の色となった。

 かように古くから「色」にまつわる煩瑣なルールが運用される一方、「文様」についても位階によるルールが設けられるようになっていく。平安時代に源高明によって著された有職故実の書『西宮記』(参照)には次のようにある。

延喜七年二月二十三日、庚午云々、左大臣言次曰、供御朝服綾文、臣下服同文、甚不改宜、此可被判云々、御記
(源高明『西宮記』臨時四「人々装束」)


 つまり、延喜7年(907年)2月23日に左大臣・藤原時平が「醍醐天皇の朝服と臣下の服が同じ文様では甚だ不都合であるから区別すべき」と歎いたことを、高明は父・醍醐天皇の日記『延喜御記』を引いて記しているのである。どのような文様であったかは不明であるが、14世紀前半以前に成立した『天子摂関御影』には「桐竹鳳凰文」の黄櫨染御袍を着用している高倉天皇が描かれている。


高倉天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)

 こうして「色」に加えて「文様」もルール化されていき、公家や武家の官職・儀式・装束などを研究する学問(有職故実)は盛んになっていった。公家が装束や調度に用いる伝統的な文様は「有職文様」と呼ばれるが、やがてこれらの文様は門跡寺院などを通じて仏教に流れ込んできた。打敷などの荘厳具や法衣や袈裟などの装束と「有職文様」は切っても切れない関係にあるのである。

 下の写真は松襲色の道具衣で、「有職文様」である「葵立涌」の中に「華頂菊」が配されている。「立涌文」というと「藤立涌」や「雲立涌」が有名で、涌き立ちのぼっていく2本の曲線の中央が膨れ、両端がすぼまった形が特徴である。古くは親王や関白が使用する文様であった。ちなみに「立涌」は「立枠」と表記される場合もあり、この道具衣を誂えた法衣店は「立枠」を採用しているが、「立涌」のほうが一般的だろう。


葵立枠華頂菊

 また「華頂菊」(十六八重裏菊)は皇室の菊紋(十六八重表菊)を文字通り裏返したものであるが、このように皇室の御紋を避けるようにして様々な菊紋のバリエーションが生み出された。

 後鳥羽天皇(1180〜1239、在位1183〜1198)が好んで用いられたことから皇室の御紋となった「菊御紋」ですが、幕末までは一定の制限はあったものの、一般の寺社でも「菊御紋」は用いられました。しかし、明治元年(1868)に、みだりに「菊花紋」を使用することが禁止され、明治2年(1869)に「十六(葉)八重表菊紋(菊御紋)」が正式に天皇の御紋に決定とされると、親王家が十六葉の「菊花紋」を使用することを廃止し、十四、五葉以下、もしくは「裏菊紋」を用いることになりました。また、一部の門跡寺院や神社を除き、一般の寺社での「菊御紋」の使用も禁止されました。その後の明治4年(1871)には皇族以外は全て「菊花紋」の使用が禁止されましたが、明治12年(1879)に、その規制は緩和されました。しかしその間、寺院では「菊御紋」の打敷や袈裟の使用はできず、「菊御紋」に文様を描き加えたり、色を差したりして「菊御紋」ではないと主張する必要がありました。
(池修『佛教の文様』光村推古書院、2017年、11頁)


 知恩院の山号が「華頂山」であることは比較的によく知られているが、その背後の山はかつて三井寺の別院「花頂院」(『応仁記』によると応仁の乱で焼失)が建立されたことから「華頂山」と呼ばれていた。『知恩院旧記採要録』(参照)には、「嘉禄の法難」で廃滅した法然上人の廟堂を源智上人が再興したときに、四条天皇より「華頂山」の山号を賜ったとある。

文曆元年。源智上人遂奏聞。舊房を再興して。先師二十三囘正忌之追福を營み。慈恩を報謝し化益大なり。四條院其功之多きを叡感の餘り。山院寺號を勅撰し給ひ。則廟堂に知恩敎院。大殿に大谷寺。總門に華頂山之勅額。及華頂尊者之諡號を賜ふ。
(『大日本仏教全書. 117』仏書刊行会、1922年、386頁)


 また、知恩院宮門跡は慶長12年(1607年)に徳川家康が皇子・八宮を宮門跡としたのに始まる。八宮は落飾(出家)して良純法親王と号し、明治維新まで尊光・尊統・尊胤・尊峰・尊超・尊秀法親王と続いたが、慶応4年(1868年)に詔によって尊秀法親王は復飾(還俗)して華頂宮博経親王と改称。こうして知恩院宮は7代で廃絶し、新たに華頂宮が創設されるのであるが、こちらも4代で断絶している。

 ところで、本書の魅力は何といってもその豊富な図版にある。家紋・動物文・植物文・有職文といった色彩豊かな文様で溢れかえっており、パラパラと眺めるだけで十分楽しい。思えばABC六本木店は、美術やデザイン関係の専門書を数多く取り揃えた、ヴィジュアルに訴える店づくりに定評があった。

 仏教で用いられる文様は上述の通り、非常に制約が多い。また文様だけでなく、装束の色や形についても、時代によってその制約の運用が厳格であったり寛容であったりするものの、事細かにルールが張り巡らされている。一方、ABC六本木店は旧来の慣習を打ち破った、カテゴリーを無視したディスプレイが効いていた。そこに思いがけぬ出会いもあった。

 ネット全盛の時代になって来ると、ネットで出来ないことに価値が生まれる。ひと昔前は「身体性」という言葉をよく目にしたが、最近は「モノからコトへ」という言葉に置き換わったようである。要するに、やっぱり「体験」かもねと。

 そんなわけで、ABC六本木店で過ごした日々は、まったくかけがえのない思い出なのである。


『佛教の文様』(池修)

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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