June 18, 2020

地蔵閻魔一体論

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため境内を閉門していた総本山知恩院は5月26日から境内を開門し、京都四箇本山の三箇寺の大本山でも諸堂を開扉した。日本全国で少しずつ社会経済活動が再開されていることは、やっぱり率直に嬉しいことである。

 NHK連続テレビ小説『エール』は脚本家の降板劇があった上に、照準を合わせてきた東京オリンピックが新型コロナで延期となるなど不運が重なった。小山田耕三役の志村けんは第1回放送前日の3月29日に死去。4月1日から収録が休止されていたが、ようやく6月16日から収録が再開されたようである。

 そんなこんなで満身創痍の今作であるが、6月15日(第56回)と翌16日(第57回)のスピンオフ「父、帰る」は緩くキテレツでなかなか面白かった。音の亡き父・安隆があの世から10年ぶりにこの世に舞い戻ってくるのであるが、とりわけ東京の古山家に現れた第56回は衝撃的だった。

 関内家はクリスチャンであったにもかかわらず、安隆は経帷子に天冠(三角頭巾)という死装束で現れる。それも閻魔大王から「旅の栞 一泊二日ノ旅」という紙を手渡されるのだが、そこにはご丁寧にも「緊急聯絡先 地藏菩薩」と記されているのである。


※朝ドラ『エール』のTwitterアカウントは削除されている。


 クリスチャンである安隆に死装束を、それも死後10年経っても着せたままにしておきながら、地蔵閻魔一体論もこっそり忍ばせてくるので何だかハラハラする。

 もう5年ほど前になるが、たまたま地蔵菩薩について調べる機会があり、地蔵閻魔一体論や地蔵弥陀一体論の概要までは把握した。前者については『大方広十輪経』(『地蔵十輪経』の旧訳)序品において地蔵菩薩が「或作閻羅王身」(或いは閻羅王身に作る)と説示されたことなどにより、少なくとも中国唐代には地蔵菩薩と閻魔大王とが接近していた。

 そして日本においては平安前期の仏教説話集『日本霊異記』に、冥府からこの世に帰ろうとする藤原朝臣広足が王に名前を聞いたところ、王が「我を知らんと欲せば、我は閻羅王、汝が国に地蔵菩薩と称す、是なり」と答えている。

 これ以降、地蔵閻魔一体論は文献の随所に登場するようになるのだが、とりわけ印象に残っているのは『南総里見八犬伝』の第90回(参照)における言及である。

時に文明十五年。正月二十日の事かとよ。舩虫はけふも亦。點燭時候より宿所を出て。濵邊に立て客を俟つ。左右には方九尺なる。茅葺の佛堂の。二𫝷並びて建りける。そが左には地藏菩薩。右には閻魔の木像あり。いぬる至德の年間(後小松御院宇)にやありけん。貝塚なる。光明寺の聖聰上人。這地を過り給ひし折。網引釣漁る浦人們に。輪囬應報の理りを。叮嚀に說諭して。をさをさ冥福を薦め給ひしかば。浦人們月毎に。錢を集め年を歷て。竟に二𫝷の佛堂を。濱邊に建立したる也。地藏と閻魔は一佛二體。慈愛肅殺異なれども。倶に能化の教主なり。世に罪障多かるものは。死して墜獄の苦みあり。閻魔の廳に呵責を受て。永劫浮󠄁む瀬あることなし。又舊惡あるものも。先非を怕れ懺悔して。心を慈善に轉せば。一旦地獄に墜るといふとも。地藏菩薩に救れて。竟に天道の快樂あり。些小也とても。惡事をすな。小惡の稍蘊れば。大惡となりて。免るる路なし。些小也とても。善事をな怠りそ。小善も良積れば。大善となりて果報あり。然ば地獄も天堂も。閻魔も地藏もおのもおのも。皆その心の致す所。これを他に求ずして。よくその心に求れば。佛ともなり。餓鬼ともならん。世に釣漁を做すものも。宮戸河なる濵成弟兄。近くは。淀に彌陀二郎あり。こころ佛意に愜ふものは。日毎に江河に網を卸して。殺生の罪消滅す。手足に暇なきものも。口に佛名は唱易かり。這義を忘れざる與にして。那上人の說薦めて。建させ給ひし佛堂なれば。誰か疎鹵に思ふべき。然るを舩虫と媼内のみ。一毫も忌憚らず。地方もあらんを兩佛堂の。間に立在み客を引て。邪淫に汚穢すのみならず。人を害して財を奪ふ。罪惡越に極れり。
(滝沢馬琴『南総里見八犬伝 第8輯 5』東京稗史出版社、1885年)


 毒婦の船虫は灯ともし頃になると決まって芝浜で客を待つのだが、そこはよりによって地蔵堂と閻魔堂に挟まれた場所。至徳年間(1384-1387)に貝塚(現在の千代田区平河町付近)の光明寺の聖聡上人がこの地を通りかかった折、漁民に輪廻応報の理を説諭したところ漁民たちは発心し、皆でお金をコツコツ貯めて建立した地蔵堂と閻魔堂なのに、ということである。

 そして「地蔵と閻魔は一仏二体」云々と続き、この世での罪障が多ければ閻魔庁で地獄に振り分けられるが、たとえ地獄に墜ちても懺悔して心改めれば地蔵菩薩に救われて天道(極楽)に生まれるという。さらに廃悪修善の話、来世の良否はすべて心がけ次第という話へと続いて行く。後者については「己心の弥陀・唯心の浄土」を連想させなくもない修辞が用いられているが、深読みは無用と見た。

 また、宮戸河(隅田川)で浜成・竹成の兄弟が聖観音像を網で引き揚げた「浅草寺縁起」、焼け火箸で頬に火傷を負わせた托鉢僧が粟生の光明寺の釈迦如来だった「弥陀次郎縁起」と話は進む。

 詰まるところ、魚を殺生しても信心があればその罪は消滅する。なぜなら、たとえ手足が塞がっていようとも、口に「南無阿弥陀仏」と唱えることはできるのだから。そんな聖聡上人の説諭を忘れまいと、地蔵堂と閻魔堂は建立されたというものである。

 ところで、聖聡上人は明徳4年(1393)にまさしく貝塚にあった古義真言宗に属する光明寺を復興して浄土宗に改めるとともに「増上寺」と改称させた実在の人物である。早くから真言密教を学んでいたが、至徳2年(1385)に浄土宗七祖・聖冏上人の下で浄土宗に帰依し、聖冏上人が確立した五重相伝の普及に尽力した。尚、増上寺は慶長3年(1598)に江戸城の裏鬼門である現在の芝の地に移されている。

 ここで『エール』に戻るのだが、豊橋の関内家に安隆が戻ってきた第57回。その最後の場面で、安隆は作業場にいる岩城に「再婚を許す」と、未亡人である妻との結婚を認める置き手紙を残す。ところがそれを見つけた岩城は「おれは安隆さんといるおかみさんが好きなんです」と書き加えて終わるというものだった。

 正直、岩城の表情だけで良かったし、『エール』にはエールが必要なのだと思う。いずれにせよ、くどくなるといけないので書き落とした地蔵弥陀一体論は諦めたい。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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