February 10, 2014

慣用表現

 英語圏では誰かが亡くなると"R.I.P."が捧げられる。"Rest in peace"の略語で「安らかに眠れ」という意味の決まり文句であり、日本の「ご冥福をお祈り申し上げます」に近い。他にも"Our thoughts are with you"(ご心痛をお察し申し上げます)といった慣用句もあり、個人的には後者のほうがしっくりくる。

 「永眠」という言葉はいつ頃から日本で使われるようになったのだろうか。どうもあまり古い言葉ではない気がするし、たぶんキリスト教の影響ではないかと考えている。そして調べていて判ったのだが、同じキリスト教でも教派によって死の呼称が違うのである。

  • プロテスタント・・・「召天」
  • カトリック教会・・・「帰天」
  • 正教会・・・「永眠」

 プロテスタントの「召天」は読んで字のごとく「天に召される」といった意味である。ちなみに「昇天」と表記するとイエス・キリストの死を意味し、また聖母マリアの死は「被昇天」とカトリック教会では呼ばれている。

 カトリック中央協議会のサイトによると、「神のみもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということ」(参照)と人の死を言い表している。かなり含みのある表現であり、カトリックの教理体系に通じていなければ「帰天」を具体的にイメージすることは難しい。ただ、その語感は「還浄」(浄土に還る)のそれにとてもよく似ていると言える。

 そして、「永眠」が日本正教会では用いられているのであるが、「永眠」とは「永久に眠ったままでいるとか、死者のたましいが眠っている、という意味ではなく、『復活』の意味を込めた象徴的な表現」(参照)であるという。それはそうだろうなと思った。ちなみに正教徒はイエス・キリストを「イイスス・ハリストス」と、またアーメンを「アミン」と発音する。

 日本人が「永眠」という言葉を用いるとき、キリスト教における「復活」という前提はまず持ち合わせていないわけであるが、だからと言って本当に永遠に昏々と眠り続けるイメージを抱く人はどれだけいるだろうか。やっぱり三年寝太郎くらいで目覚めて欲しいように思う。

 浄土教においては、「往生」という語で念仏者の死を言い表すのが最も一般的である。法然上人(源空)は『往生要集釈』(参照)において、「往生」を以下のように説明した。

往生と言うは、捨此往彼蓮華化生なり。艸菴に目を瞑するの間、便ち是れ蓮臺に趺を結ぶの程なり。卽ち彌陀佛の後に從い、菩薩衆の中に在り、一念の頃に西方極樂世界に生ずることを得。故に往生と言うなり。
(源空『往生要集釈・往生要集詮要』法蔵館、1916年、1-2頁、原漢文)


 少し分かりやすく訳してみた。

  • 「往生」とは、この娑婆世界を捨ててかの西方極楽浄土へ往き(捨此往彼)、蓮華の中に生まれる(蓮華化生)ことである。
  • たとえば草庵で目をつむり息を引き取るその瞬間にも、極楽浄土の蓮華台に趺坐しているほどの早さである。
  • 阿弥陀如来の来迎を頂戴して、阿弥陀如来の後に随う諸菩薩に交じれば、一瞬にして極楽に生まれる。
  • 往ったが早いかもう極楽に生まれていることから、「往生」というのである。

 目にもとまらぬ早業である。『観無量寿経』にも「如一念頃」(一瞬の間)という表現が見られるし、その他にも「如弾指頃」(指を弾くほどの間)や、「如壮士屈伸臂頃」(元気な男性が肘を曲げて伸ばすほどの間)といった言い回しが用いられている。

 かように死のイメージはさまざまであるが、それぞれに奥深さがある。「召天」、「帰天」、「永眠」、そして「往生」。そうした呼び名以外にも数え切れない呼称が存在するわけだが、それぞれの呼称の背後には煩瑣な教理が控えている。字面だけで判断してしまい、それがどういった内容を含んでいるのかをよく吟味しないと、本質を見誤ってしまうことになる。

 ただし、一般論として教団が構築している教理と、実際の信者の信仰が一致することは稀である。冒頭に触れた"R.I.P."や「ご冥福をお祈り申し上げます」といった定型句は、教団間の教理の軋轢を忌避する機能を備えるものであり、教団がそういった慣用表現の駆逐にいそしもうとするならば、なかなかに厳しいものがあると言わねばならない。

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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