April 17, 2014

あゝ鼻毛

 学生の頃、『Begin』というファッション雑誌をよく読んでいたが、この雑誌に「モードの鼻毛」という名物コラムがあった。「おしゃれなあの人の顔をよーく見ると、あらま鼻毛が1本」みたいなノリの、要するに「おしゃれ」とされるトレンドやそこに群がる人々をおちょくり倒すというコンセプトのコラムでなかなか面白かった。

 これは直さなければと自覚してはいるのだが、私はどんなに真面目な話をされていても鼻毛が目に入ったが最後、気になって気になって仕方がなくなってしまう。束になってドサッと出ている人もいれば、長い1本が呼吸に合わせて出たり入ったりする人もいるので油断がならない。

 私がそうだからといって皆がそうとは限らないけれど、やはり気になる人はいるだろうし、それに鼻毛が伸びてると鼻がムズムズして落ち着かないので手入れは欠かせない。どうだろうか。

 鼻毛の歴史は長い。比叡山に横川という、慈覚大師円仁が首楞厳院を建立したことで開かれていったエリアがあるが、この横川の恵心院に源信(以下、恵心僧都)という天台僧が隠遁していた。

 恵心僧都は『往生要集』という、極楽往生のためのマニュアル本を著したことで夙に有名であるが、この『往生要集』が撰述された翌年の寛和2年(986年)に、極楽往生を希求する「二十五三昧会」が結成され、恵心僧都も二十五三昧根本結縁衆(以下、根本結縁衆)に名を連ねている。

 この「二十五三昧会」もまたやはり『往生要集』をマニュアルとして往生に臨んでおり、根本結縁衆相互の葬送や追善供養を行う念仏講であった。ちなみに「二十五三昧」とは、衆生が輪廻する苦しみの世界を25種に分類したとき、それらを破する25種の三昧をいう。これに合わせてか、根本結縁衆の初期のメンバーも25名であった。

 寛仁元年(1017年)6月10日、恵心僧都は齢67歳で臨終正念に往生の素懐を遂げ終わる。その臨終の様子については、同じく根本結縁衆に名を連ねていた覚超が撰述した『首楞厳院二十五三昧結縁過去帳』に詳しい。

 ついで自分の住んでいるところを奇麗に掃除をし、着衣のよごれたものを洗い浄めるなど、万事につけて臨終の用心は怠りなく見えた。同十日の朝は平常のごとくに飲食し、鼻毛を抜き口をすすぎおわって、仏の手に結びつけた糸を持って念仏し、眠るがごとくであった。
 彼のそばに侍する人々も彼の様子があまりに静かであったために、ただ休息しているものとばかり思って気にとめていなかった。しばらく物音もしないので、様子を見に行くと、頭を北にして顔を西に向け、右脇を下にして横になってすでに死んでいた。顔色も美しく、そのうえ微笑を浮かべているようにさえ見えた。手には例の仏の手に結んだ糸をとり、念珠を持して両手は合わせているが少し片手をずらしている。
(川崎庸之『日本の名著4 源信』中央公論社、1983年、378頁)


 「仏の手に結びつけた糸」などは、『往生要集』で取り上げられている臨終時における代表的な作法で、そうした作法を「臨終行儀」と呼ぶ。阿弥陀仏の右手と病人の左手とを五色(青黄赤白黒)の幡、または糸で取り結ぶなどして往生に臨むことが良しとされていたわけだが、法然上人においてはこうした臨終行儀に重きが置かれず、平生の念仏こそが大事とされる点は押さえておかなければならない。

 ところで、どうにもこうにも私の鼻毛レーダーが反応してしまうのである。そう、「平常のごとくに飲食し、鼻毛を抜き」の箇所にである。まさかあの恵心僧都も鼻毛を抜いていたとは。

 調べてみたところ、日本国内では平安中期に編纂された『和名類聚抄』に、毛抜きに関する最古の記録が残っている。『和名類聚鈔』(二十巻本)の第14巻、第22部「調度部・中」の第180門「容飾具」(参照)に次のようにある。

鑷子
『釋名』云、鑷尼輒反、攝也、拔取毛髪也。『楊氏漢語鈔』云、波奈介沼岐。俗云、計沼岐。
(『和名類聚抄』第7巻、那波道円、1617年)


 「尼輒反」は「顧みれば」ほどの意味となろうか。『釋名』(中国後漢の劉熙による訓詁書)によると、「鑷」とは「攝」、すなわち毛髪を抜き取るものであるという。また、『楊氏漢語鈔』(奈良時代の漢字辞書)によるならば「波奈介沼岐(ハナケヌキ)」、俗にいう「計沼岐(ケヌキ)」であると説明されている。

 近年、「DQNネーム」や「キラキラネーム」といった、一風変わった名前に対する蔑称が台頭してきているけれども、少なくとも当て字などに関して言うなら、日本は大昔からキラキラしていた。それも大いにキラキラしていたと言える。大和言葉の音声に漢字を当てて万葉仮名が生まれた経緯を考えれば、何を今さらとも思う。夏目漱石など当て字番長と呼んでもいいくらいだが、抜いた鼻毛を原稿用紙に植え込む鼻毛番長としても知られており、奇妙な符合がある。

 それはさておき、遡って『釋名』(参照)も調べたところ、確かに「鑷攝也攝取髪也」の7文字が確認された。やはり「髪」であることから、白髪を抜くためのものということになるのだが、かなり早い段階で鼻毛抜きに流用されていたものと思われる。ついでに『釋名疏證』(参照)も調べてみたが、「鑷」に関して「此俗字也」云々とあり、「攝」(抜き取る)の手偏を金偏に変えることで金属製の毛抜きを表現していたのかもしれないが、こちらもつまびらかでない。

 今月4日から7日に亘って、大津市の天台真盛宗総本山西教寺において、恵心僧都の1000年遠忌が営まれた。天台真盛宗を開いた真盛上人は蓮如上人と同時代の人であるが、『往生要集』に深く傾倒し、よって恵心僧都の流れを汲んでいると言える。この念仏聖について調べるといろいろ考えさせられるのであるが、それについてここでは触れない。

 縷々述べてきたが、大事なのは他人の鼻毛を笑わないことである。他人の鼻毛を笑ったりするときに、自分の鼻毛もまたピローンと飛び出したりするからである。


Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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