April 5, 2014

『桜は本当に美しいのか』(水原紫苑)

 東京大学の秋入学はいつの間にか見送られた。その代わりに4学期制が導入されるそうだが、秋入学・秋卒業が打ち出されたときに比べ、あまりニュースにはならなかったようである。

 出会いと別れに立ち会う景色が桜から紅葉に変われば、出会いや別れもそれなりに変わってくるのだろうか。言うまでもなく、秋入学はグローバル化の波に押されたものであった。歌人の水原紫苑さんは、『桜は本当に美しいのか: 欲望が生んだ文化装置』(参照)の冒頭で、これほどの重荷を桜が背負わされている国は日本をおいて他にないと述べている。

 『桜は本当に美しいのか』とは、なかなか挑発的なタイトルである。しかし、著者はすこぶる桜が好きな女性なのであった。庭に桜を植えたり、白いトイプードルに「さくら」と名づけてみたりと、ちょっとした「桜狂騒曲」みたいなことになっているのが可笑しい。もっとも、藤原道長の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」に、「自身の傲りを意識した演技性がある」と著者が指摘するような「演技性」が、「桜狂騒曲」からも感じられぬわけでもない。

 古くは稲の豊凶を占うための呪的な花だった桜であるが、やがて観賞するための花に変わっていく。その変容のプロセスを『万葉集』に見出せると著者は言う。そして『古今集』の時代になると、都の街路樹に桜が植えられるようになっており、山の桜が都の桜の下位に置かれるという逆転現象が起きる。もう少し後代の藤原定家の歌集『拾遺愚草』には、このような歌がある。

さくら花ちりしく春の時しもあれかへす山田をうらみてぞゆく

 桜の花びらで美しく敷き詰められた田を掘り返す農民への怨み節、といった趣きの歌である。しかし、本来桜が豊作を祈る花であったことを思えばずいぶん理不尽な話と言わねばならない。

 話を『古今集』の時代に戻すと、紀貫之は醍醐天皇の勅命によって『古今集』を撰したのであるが、戦略的にそれもふんだんに桜の歌を盛り込むことで、まさに桜の文化が花開いた。それまで久しく公の文芸とされてきた漢詩に対抗するため、まだ呪力の残っていた桜を詠むことで和歌に霊力を吹き込もうとしたのではないかと著者は言う。

 そうして『古今集』以降は桜が重宝されるようになる。『源氏物語』では重要な場面で必ず桜が登場するし、『新古今集』になると実在の桜は出尽くしたと見えて、非実在の桜が好んで詠まれるようになる。そして、これと並行して本歌取りの技巧によって桜の観念化に拍車が掛かっていく。

 桜は変奏され続ける。『忠臣蔵』の10段目で、窮地にあって動じなかった天川屋義平の前へそれまで長持に身をひそめていた由良之助が出て来るシーンがある。由良之助はこう言うのだ。

花は桜木人は武士。いっかないっかな武士も及ばぬ御所存。

 歯が浮くような台詞である。「武士は桜が散るように未練なく命を捨てるが、そんな武士でさえ足元にも及ばない男気である」と見え透いたお世辞を繰り広げたのであった。著者はこのような桜の取り上げられ方を「最悪に近い」と断じて憚らない。

 この表現の初出について著者は掘り下げていないが、じつは室町時代の一休禅師の言葉とされるものに次のようなものがある。最後の「みよしの」とは吉野の桜であるから念が入っている。

花は桜木 人は武士 柱は桧 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの

 ところで、著者は上田秋成の『春雨物語』から「宮木が塚」を取り上げている。零落した公家の姫君・宮木は神崎の遊女となるが、河守の十太に見染められてようやく春が訪れるかに見える。ところが、美しい宮木に横恋慕した藤太夫によって、生田での花見のさなかに十太は嵌められ、やがてこの世を去る。そして、宮木は十太とのはかない恋の思い出(幾多の咲良)に殉じる覚悟を決めるのである。

 折しも、配流先へ下る法然上人の舟が神崎に通りかかる。宮木は上人に泣きながらこう訴えるのであった。

あさましき世わたりする者にて候。御念仏さづけさせたまへよ。

 法然上人は苦界に身を沈めるこの女を哀しみ憐れんで、十遍の念仏を授ける。すると、追いかけるように女も十遍となえ、そして入水する。上人は波の底へ向かってこう呼びかける。

念仏うたがふな。成ぶつ疑がふな。

 言うまでもなく、この話は『法然上人行状絵図』の第34巻が下敷きとなっている。行状絵図では、出来るなら今の生業をやめるよう法然上人は諭され、遊女はその後、近くの山里に移り住んで臨終正念に往生を遂げるのであるが、そこは秋成の腕の見せ所である。そして念のために言っておくと、念仏往生の教法は決して自死をそそのかすものではない。

 ちなみに水原氏は法然上人の登場のさせ方を、「ギリシャ神話のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)のよう」であると評している。著者は本書において、歌のみならず桜にまつわるあらゆる文芸を渉猟してみせるが、それらへの論評に少しもためらいがなく切れ味鋭いのが痛快である。

 たとえば、梶井基次郎の『櫻の木の下には』を「ヤワ」のひと言で切り捨てる。本居宣長の桜至上主義に至っては、「自分は鳥や虫になっても桜のそばにいたいと言うのだから、毛虫になっても悔いがないどころか、歓喜するであろう」とけちょんけちょんである。これはさすがに少し言い過ぎではないかと思うのだが、著者にもそれなりの言い分があるようだ。

しき嶋のやまとこころを人とはは朝日ににほふ山さくら花

 宣長のあずかり知らぬことであるのを認めつつも、著者はこの宣長の歌から「敷島隊」、「大和隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と、神風特攻隊の隊名が冠せられたことが憤懣やるかたないのである。

 戦後、桜はタブーだった。西條八十原作の軍歌『同期の桜』で歌われたように、桜は軍国の花と散った。そう、散ったはずだった。それがやがて息を吹き返すようになる。1976年に美空ひばりの『さくらの唄』と小柳ルミ子の『桜前線』が登場し、ついに2000年代から「桜ソング」は増殖を始めたと著者は指摘する。

 いつ頃から桜に人の心を語らせたり、人が桜の心を語ったりするようになったのだろうか。著者は「桜と人生が重ねられる初期の典型的な歌」として、『古今集』から承均法師の1首を取り出してみせる。

いざさくら我もちりなむひとさかり有りなば人にうきめみえなむ

 「さあ、桜のようにパッと散ってしまおう。うっかりもう一花咲かせたりしようものなら、かえって見っともない姿を晒してしまうことになるから」といった趣向の歌である。これに著者が強烈な一撃を食らわせている。

なぜ、他人の目に映る姿がそう気になるのか。桜は、誰に見せるためでもなく散るのである。あなたも勝手に散ってくださいと思うのだが。

 無惨としか言いようがない。 しかし、その通りだと思う。桜は人間の都合などお構いなしにただ咲いて、ただ散っていくのである。それも染井吉野ならクローンだから一斉に散っていくわけだが、何も号令を掛けて申し合わせて散っているわけでもない。

 震災の直後、何食わぬ顔で満開の花を咲かせてみせた桜は、あまりに冷酷であった。しかし、その非情の中にこそ確かな希望があったのではなかったか。人間に近過ぎる桜は、じつはあまり役に立たないのである。


『桜は本当に美しいのか』(水原紫苑)

Profile

吉田哲朗(よしだ・てつろう)
1973年愛媛県生まれ。青山学院大学経済学部卒業。浄土宗僧侶、総本山知恩院布教師。前・海立山延命寺住職。現在、東漸山金光寺副住職。

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